●難産だった本線用ディーゼル機関車…3
ー不運の機関車、DD54型ー

 「難産だった本線用ディーゼル機関車…2」の項目の中で作者は
… 国鉄では各車両メーカーに試作機を造らせて今後の方針を探りましたが、一部を除いて満足できる性能のものはなく、エンジンなど主要部分も外国の設計によるものばかり。…
と、書きました。
 この「一部を除いて」の「一部」が不運の機関車として有名なDD54型に関係してきます。
 国鉄がメーカーに試作させた機関車のうちのひとつに、性能の良いものがありました。
 三菱が西ドイツのマイバッハ社と提携して作った機関車です。
 国鉄では結局純国産のディーゼル機関車を開発していくこととなりますが、それはそれとして、同時に海外の優秀な技術も取り入れていきたいという意見も多くありました。
 「メキドロ式」といわれる液体変速機は国内には見られないタイプのもので、軽量化が期待できること、DD51型の安定化のメドはついたものの、将来的にはなお高度な技術を取り入れて消化しておく方がよいと判断されたからです。
 国鉄では、大量投入はしないもののある程度の数を製造して取り入れていこうという方針が決められ、1966(昭和41)年にDD54型がデビュー、山陰、福知山、播但の各線で蒸気機関車に代わって活躍を始めました。


 DD54型ディーゼル機関車。
 きれいにまとまったスタイルは今なお根強い人気を保っていますが、登場当時は「SLの敵」として目のカタキにした鉄道ファンも多く、そういう意味でも不運な機関車といえるでしょう。模型はTomix製品です。


 純国産のDD51の安定化には試作機登場から3年近い時間がかかりましたが、DD54は登場直後からバリバリ力を発揮し、「先進国は違う」と関係者は舌を巻いたといいます。
 また、エンジン出力だけ見るとDD54はDD51より小さいのですが、変速方式の違いその他があって実質的な機関車としての能力はあまり大きな違いはありません。にも関わらず、DD54はDD51より20%近く軽量でした。
 ところが登場後しばらく経つと、DD54は故障が目立つようになります。
 しかも故障個所はご自慢の変速機回りが中心で、関係者は原因の究明と故障の対応に非常に手を焼くこととなったのでした。
 結局日本とドイツでは使用条件や気象条件が異なり、機械を扱うノウハウも異なっていたことが主な原因だったといわれます。
 日本の鉄道、特にローカル線ではカーブや小さなポイントが多く、頻繁に加減速を繰り返します。気象条件も同じではありませんし、機器の維持管理のノウハウもドイツの方が「職人」的要素が多くなっています。
 「職人」的であることはよいこととも思われますが、数多くの機械を一律に動くように維持管理するには「マニュアル化」「数値化」されたノウハウをもって扱うというのもまた正論といえ、この辺は一概に結論が出るものではありません。
 問題は日独の間に「温度差」があったという事で、「メキドロ式」という液体変速機がデリケートで構造が複雑だったことは、問題を一層ややこしくしたともいえます。
 更に当時、国鉄では既に不毛の労使紛争が始まっており、現場が混乱を極めていて整備が行き届かない状態になっていたことも、無視できないでしょう。
 また、故障に関して本国に問い合わせると、今日のように通信が発達しておらず「国鉄」も巨大な組織だった時代のことですから、現場が返信を受けるまでに長い時間がかかりました。しかもその返答が必ずしも日本での使用条件や鉄道の実態に合ったものではない場合もあり、これも事態をこじらせました。
 結局どうしても故障を克服することは出来ず、事態は悪化するばかり。ひどいときには約半数が稼働不能になるという状態となり、ついに1979(昭和54)年、DD54は引退となります。
 中には製造後5年も働かないで廃車になってしまったものもあり、国会では「国鉄の無駄遣い」の例として引き合いに出されるほどでした。
 こういう結果にはなりましたが、DD54が本当に無駄な存在だったのか、結論を出すのは難しいところです。
 純国産で作ったDD51の安定化に3年近い時間を要している事からもわかる通り、当時の大型ディーゼル機関車は暗中模索の状態でした。
 DD54が成功していれば、これで培った技術を使って、より軽量で高性能な新形式が起こされていたかもしれず(そう仮定するのも結構飛躍しているかもしれませんが)、そうなればDD54の位置づけもまた、異なってきたのではないかと考えられるのです。


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