●交流電化始まる



 はじめての本格的交流電気機関車として登場したED70型。マイクロエース製品です。
 北陸本線で活躍しました。


 電化が進み、優れた電車や電気機関車が普及するにつれて、電気運転の優秀性は次第に認められるようになってきました。
 一方、今後主要幹線の電化を進めていくにあたっては、必ずしも都市部のように輸送量が多い線ばかりとは限らないため、設備が簡単で建設費の安い「交流電化」を取り入れることとなりました。
 電気には「直流」と「交流」があり、一般家庭の電灯などには交流が使われていますが、鉄道の電化方式は直流が一般的で、当時わが国の鉄道では直流電化しか行われていませんでした。
 これは「直流直巻モーター」は回転数0からの起動時に大きなトルク(回転力)を出す特性をもち、なおかつ高速回転が可能で鉄道用に適していたからです。
 しかし発電所でつくられる電気は交流であり、交流電化なら交流を直流に変換する設備が要らなくなります。また、交流だと直流に比べ送電効率をよくすることが可能であり、変電所の数が少なくて済むことも注目されていました。
 電力は 電力=電流×電圧 という形で示されますが、電流を小さくして電圧を高くとる方が、効率的に大きな電力を送電出来ます。
 直流の高電圧送電は現在でも不可能ですが、交流は変圧が容易で高電圧送電も可能です。高電圧になると高度な絶縁技術も必要になってきますが、技術の発展により高電圧でも安全の確保は可能になってきました。
 当時フランスでは既に交流電化が始まっており、少しずつ成果を上げ始めていました。
 この技術は本来ドイツで開発されたものだったのですが、フランスがドイツからの「戦時賠償」の形でこの技術を手に入れたという経緯があります。
 交流電化についてはまったく実績のないわが国でしたが、交流電化は今後の鉄道の発展に不可欠と判断され、仙山線で交流用の電気機関車や電車の開発が始まりました。
 交流で走る車両は既にフランスなどで実用化されており、一時は輸入という案もあったのですが、両数や価格、性能の点で折り合わなかったという経緯もあって、わが国で独自に開発することとなったのです。
 この結果、確かに「交流電化」という発想自体はフランスから学んだものの、日本の交流電化のシステムは独自性の強いものとなりました。
 試作機を制作して多くの試験を行った結果、まず機関車の実用化のメドが立ち、車内に置いた水銀整流器を使って交流を直流に変換し、鉄道用に適した「直流直巻モーター」を動かす「間接式」という方法が採用される事となりました。この方式は、以後わが国のスタンダードとなります。
 一方、フランスなどで採用されていた方式には、交流をそのまま使用する「直接式」というものもあり、仙山線の試験でも直接式の電気機関車を制作して実際に営業列車を牽かせてみたりしています。
 しかし直接式に搭載した「整流子モーター」では「ブラシ」という部品の磨耗が激しいこと(「ブラシ」については「走ルンです」の項目でもう少し詳しくお話しします)、同じEDクラスの大きさで比較した場合、間接式の方が牽引力が大きいことなどから、直接式の採用は見送られました。
 電車についても直接式の実験はあれこれ行われました。しかし結果は思わしくなく、幸い小型のシリコン整流器も開発されたため、機関車同様直流直巻モーターを使うこととなりました。
 こうしてわが国でも交流電化は実用化され、1957(昭和32)年の北陸本線米原ー敦賀間を皮切りに、地方の幹線では交流電化が進められることになります。
 常磐線では沿線に地磁気観測所があり、観測に影響を与えるために従来の直流では首都圏近郊までしか電化が出来ませんでしたが、交流電化の採用と、当時はほとんど例のなかった交直両用の電車や電気機関車の開発の成功により、電化が可能になりました。


 常磐線に登場したEF80型。
 当時交直両用の車両の開発は、技術的に非常に難しいとされていました。


 交流電化の採用で、電化は急速に進みました。
 しかし、交流車は新造費や維持費が直流車に比べて高いという問題があるため、必ずしも交流万能にはなりませんでした。従って既設の直流区間と関わりの強い区間、輸送量が多い都市圏の電化などは引き続き直流で進められました。
 ただ、新幹線は輸送量の多い幹線ですが、交流が採用されています。
 新幹線のようにとてつもなく大きなエネルギーを必要とする場合は、送電効率を良く出来る交流電化の方が適しているためです。

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