●ディーゼルカー旋風
「赤字ローカル線問題」というと国鉄末期の、時代としては比較的最近の印象を受ける方も多いかと思いますが、この種の問題はバスという乗り物が登場し、大恐慌という事件の起こった昭和初期には既に始まっています。
ローカル線では蒸気機関車の列車では単位が大きすぎ、人手もかかりすぎるため、手軽に動かせる車両が必要になりました。
そこで客車に動力を付けて走るようにした車両が登場してくることとなりますが、以下「気動車」という場合は蒸気動車、ガソリンカー、ディーゼルカーをひとまとめにした言葉として扱います。
気動車は既に客車の端に小さな蒸気機関車の走り装置を付けた「蒸気動車」が使用されていましたが実用的ではなく、昭和初期、自動車用のエンジンを積んだ「ガソリンカー」が小さな私鉄向けに色々作られたのが気動車実用化の始まりといって差し支えはないでしょう。
国鉄でもキハ40000(後のキハ04)型、流線型で人気のあったキハ42000(後のキハ07)型などのガソリンカーが登場して活躍しますが、ガソリンは万が一の時発火しやすいことが問題になっていました。1940(昭和15)年に西成線(現・桜島線)安治川口駅で満員のガソリンカーが転覆、炎上して死者181名を出す事故が起きると、戦時下の燃料統制もあってガソリンカーの運行継続は難しくなってきます。
しかしこの頃の技術開発の意味は大きく、後に大量生産される規格型ディーゼルエンジンの設計は、当時のガソリンカー用エンジンを基にしているといえるのです。
戦後本格的に気動車の運行が始まるのは1950年代になってからで、戦前から戦時中にかけて開発された鉄道用のディーゼルエンジンの採用も本格化して「ディーゼルカー」が普及し始めます。ディーゼルエンジンは力も強く、燃料となる軽油もガソリンよりは発火しにくいため、安全性も向上しています。
ところがこれまでの気動車には、いくつも連結されている動力車をひとつの運転台で制御する「総括制御」が出来ないという、大きな欠点がありました。
これは変速にギヤとクラッチを使っていたためです。
モーターを動力源とし、回路をつなげば簡単に総括制御が出来る電車と比べると、これはずいぶん不便な状態でした。どうしても連結運転の必要がある時は前後に運転士が乗り込んで、ブザーで連絡を取りながらギヤを入れ替えるという、やっかいな方法をとらざるを得なかったのです。
キハ42500型。ディーゼルエンジンを積んでいますが機械式で、スタイルはガソリンカーそのものです。
模型は津川洋行のディスプレイモデルを加工したもの。
上半分を西武ベージュで塗り、三つ星の動力を入れましたが、カーブ通過能力がなさすぎるのでそのうちどうにかするつもりです。
そこでギヤを使った「機械式」に代わって、エンジンで電気を起こし、モーターで走る「電気式」のディーゼルカーが製造されるようになりました。戦前にも試験的に製造されたものはありましたが、本格的な実用化は戦後です。
これで電車と同じように総括制御が可能になりましたが、電気式のディーゼルカーは構造が複雑で重量も大きかったため、間もなくトルクコンバーター(鉄道では「液体変速機」ということが多いので、以下こういいます)を積んだ「液体式」のディーゼルカーにとって代わられることとなります。
「液体式」はいわゆるオートマ車と同じで、液体変速機が自動的に変速を行ってくれるので、エンジンを電気的に制御すれば連結運転が可能になるのです。
こうして量産体制に入ったのが1954(昭和29)年登場のキハ17系です。
キハ17系は普通列車用でしたが、翌年に登場したキハ55系はエンジンを2台積んだ強力型で準急「日光」用としてデビュー。この時初めてディーゼルカーが幹線の優等列車に進出しました。準急「日光」は上野ー日光間を表定速度73km/hという特急列車に匹敵するほどのスピードで結んで、ディーゼルカーの威力を見せつけました。
準急「日光」のキハ55型。
WINというメーカーの塗装済みキットです。
「日光」の成功によりディーゼルカーは一大旋風を巻き起こし、またたく間に全国に広がりました。そして特急用、急行用、通勤用などの各種の車両が造られていくこととなります。
ちょうどこの頃「軽量車体」の技術も確立してきていたので、強力になったとはいっても電車よりずっと非力なディーゼルカーにとっては、大きな追い風となりました。
また、全国のディーゼルカーのエンジンと変速機は基本的に同じで、この徹底した標準化も急速な発展を支えました。
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