●ディーゼル特急
1958(昭和33)年は東海道に電車特急「こだま」、ブルートレイン「あさかぜ」がデビューした年ですが、この年上野ー青森間に特急「はつかり」が運行を開始、初めて東京から北に特急が走り始めました。
当時は蒸気機関車の列車で、常磐線を経由していました。東北経由に比べて沿線に大きな都市が少なく、走行距離も長くなりますが、常磐線は勾配区間が少なく複線化も進んでいたので、蒸気機関車の時代は常磐線経由の方が速かったのです。
「はつかり」は好評でしたが、「こだま」「あさかぜ」と比べるとあまりにも格差があることは当初から問題視されていました。しかし非電化区間での特急運転となると、当時の状況ではまだ蒸気機関車が一番確実だったのです。
とはいえ、いつまでも「はつかり」をこのままにしておくわけにもいきません。
そこで様々な検討がなされた結果、「こだま型」並の車体に準急「日光」などのように規格型エンジンを2台積むという形で設計が進められました。
かくして1960(昭和35)年12月、待望のディーゼル特急キハ81系が華々しくデビュー。わが国始めてのディーゼル特急とあって、注目を集めての運行開始となりました。
ディーゼル特急「はつかり」に登場したキハ81系。
KATOの完成品です。
ところが営業開始からわずか一週間後、「はつかり」は故障を起こして立ち往生してしまいます。年明けすぐにはエンジンが火を噴くという事故も起こりました。
その後も事故は立て続けに起こり、新聞には「がっかり号」などと書かれる始末。
しかし、この1961(昭和36)年には「サン・ロク・トオ」といわれる国鉄始まって以来の規模のダイヤ改正が予定されており、全国に特急を走らせるべく、同じ足回りのキハ82系が既に量産体制に入っていました。
キハ81系に続いて登場したキハ82系。これもKATO製品です。
先頭はボンネット型から貫通型に変わりましたが、優雅な雰囲気です。大量生産され、北は網走から南は鹿児島まで、四国を除く全国で活躍しました。
中間車の形式は変わっていませんが、仕様は異なっています。
このため、関係者の不眠不休の努力で事故の原因解明、不具合箇所の改良が進められます。
ダイヤ改正用の新車も落成するなり徹底的な試運転を行って「悪いところを全て見つけだす」という方法で欠陥の洗い出しを行いました。これらの中には日に1000km以上も走ったもの、試運転中に大きな故障を起こしたものもあり、こうした中で「ディーゼル特急」の安全対策が講じられていったのです。
これらの事故の原因は単純ではありませんでしたが、技術的にまだ充分でない時期に実現を急いだということが根底にあるといって、大体差し支えはないようです。
走り装置に関しては従来のエンジンを使用し、安定性は既に確立されていたはずでした。が、このエンジンを使用した車両の走行距離は、それまでは長くても300km程度だったのです。
上野ー青森間は約750kmあり、勾配の連続する区間もあります。特急となれば殆どずっと全開走行です。いくら何でもいきなりここまでやれば無理も出てこようというものでした。
その他、キハ81ではこのエンジンを横において、車内に点検蓋を開けなくても済むようにしたこと(点検蓋から騒音が入ることを防ぐため)などにより、同じエンジンを使ったといっても実際にはピストンが横に動いており、使用条件が異なっていました。
また、ディーゼルカー快進撃の先陣を切った準急「日光」のキハ55ですが、このエンジン2台搭載という装備は、スペース的にはかなり苦心してまとめられたものでした。
シンプルな装備で済む準急用でさえ苦しかったのに、ここに特急用の種々の装備が加わったため、搭載される機器が更に増えて極限設計になってしまったことも、色々不具合を起こす原因になったのではないかと推察されます。
さらにキハ81がデビューした1960年には、日本で「第2回アジア鉄道首脳会議」が行われることになっており、東南アジア向け輸出を狙ったPRのために「ディーゼル特急」の完成が急がれたことも、ゆとりのない状況を作り出していたと考えられます。
関係者の大変な努力により故障は克服され、「サン・ロク・トオ」のダイヤ改正では全国の主要幹線にディーゼル特急が登場、実にスムーズに走り出しました。
これが現在の新幹線、特急列車ネットワークの骨格になっていくのです。
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