●第3セクターとレールバス
1980年代にはいり、長年にわたって膠着していた「赤字ローカル線問題」は、いよいよ動き始めました。
1983(昭和58)年、北海道の白糠(しらぬか)線が始めてのケースとして町営バスに転換されます。そして1984(昭和59)年には岩手県に三陸鉄道が開業、初の「第3セクター」転換路線として注目を浴びました。
第3セクターとは国や自治体(第1〜)でも民間企業(第2〜)でもない、「官」と「民」の資本によって設立された事業体をいいます。
この体制自体は新しいものではありませんし、「鉄道の運営」を行うということも初めてではありません。しかし、これほど大々的にローカル線問題解決の切り札として位置づけられ、多くの会社が設立、開業に至ったのは目新しいことでした。
「官」と「民」の資本といっても、現実には民間企業に多額の出資を期待することは難しく、多くの場合は自治体が相当の出資を迫られる事となります。
各自治体の対応は様々でした。
極めて深刻な状態のローカル線を数多く抱える北海道、炭鉱の閉山ですっかり役目を終えたかつての炭鉱鉄道が網の目のように走る福岡県などは「県は出資しない」という方針をとります。
県は廃止対象路線の沿線にもバス転換を勧めましたが、中にはこれを押し切って、沿線自治体が中心になり第3セクターを設立したケースもありました。
岐阜県や秋田県などは、出資に動きました。
しかしこれらの県では、ひとつの路線に出資したために様々な路線に出資せざるを得ないこととなってしまい、色々な無理が生じたといっても間違いはなさそうです。
同じ県のローカル線でも路線により状況は大きく異なりますから、状況に応じた判断をするのが本来の姿なのですが、現実には同じ県内で格差が生じると具合が悪い…という問題は、相当に根深かったようです。
加えて初期の第3セクターである三陸鉄道、樽見鉄道などの成功が大きく報じられたことも、それがよかったのか悪かったのか、微妙なところといえましょう。
三陸鉄道は真新しい立派な軌道の区間(転換後の設備投資をそれほどしなくても、当面安全確保は可能)が多くありましたし、路線が長いこともあって観光資源も比較的多く存在します。
また、樽見鉄道、神岡鉄道は貨物列車の自動車転換が不可能なことから荷主のバックアップがある路線であり、これらは全体から見れば明らかに特別な例です。
これらを判断材料にしたとすると…という懸念があるケースが、中には存在するのです。
一方この動きに合わせるように、車両メーカーの富士重工が1982(昭和57)年、レースバス「LE-Car」を試作したことは大きな話題となりました。
レールバスとはバス用の車体材料を利用して組み立て、部品もバス用を多用して作った鉄道車両のことで、非常に経済的であることが特徴です。
レールバスは1954(昭和29)年から一時国鉄でも使われたことがありましたが、小さすぎた上に「総括制御」(複数の動力車を一人の運転士がコントロールすること)が不可能だったため、連結して走らせることが出来ませんでした。
このためラッシュ時に対応出来ないことがアダとなって短命に終わり、当時は既に青森県の南部縦貫鉄道(現廃止)でしか見られなくなっていました。
こうした反省から、富士重工のレールバスは総括制御を可能とし、必要に応じて連結運転が出来るようになっています。パワーも小型の割には強力です。
1985(昭和60)年に開業した岐阜県の樽見鉄道では、第3セクターではじめてこのレールバスが導入されました。
三陸鉄道の車両は国鉄よりやや小振りぐらいでしたが、樽見の小さなレールバスは2軸車ということもあって非常に強いインパクトがあり、ローカル線に新しい時代が訪れたことを高らかに告げる存在となりました。
樽見鉄道のレールバス。Tomixの完成品です。
当時は模型メーカーも第3セクターの車両の製品化に力を入れていました。
第3セクターの多くは国鉄時代の無駄を省き、燃費の良い新車を入れてワンマン列車を運行、自治体と一緒になって様々な利用促進、増収作戦を展開…という施策をとり、営業収支は大幅に改善されました。
これ以降1987(昭和62)年の国鉄の分割民営化をはさんでローカル線の転換は急ピッチで進み、第3セクターも次々誕生、結局83線区3157,2kmが国鉄(〜JR)から分離され、第3セクターまたは民間企業に移管されるか、バス転換になります。
しかし転換後の路線の多くは、苦戦を強いられます。
列車本数を国鉄時代の数倍に増やして健闘する九州の松浦鉄道や甘木鉄道、都市型路線として発展を続ける愛知環状鉄道などの例はありますが、全体からすれば一部にしか過ぎません。
当初、転換路線は便利になった、生まれ変わったと多くの人の注目を集め、営業成績が黒字になったところもありましたが、開業ブームは去り、路線が存続して一安心したこともあって、住民の関心は低下、運賃も国鉄時代より高くなっているため、だんだん積極的に利用する人は減っていきました。
転換後も自家用車の普及率は上がり、高齢者も層が代わってくると免許所持率が高くなって、鉄道を利用しなくなりました。通院の人についても病院が経営強化に乗り出す中、巡回バスが登場するようになります。高校生も小子化で減りました。
こうして従来ローカル線のお得意様だった高齢者や高校生の利用が減り、平成不況の影響が色々な形で出てくると、路線存続はいよいよ難しくなってきます。
石川県ののと鉄道の一部や、既存の民間企業に移行した青森県の弘南鉄道黒石線、下北交通は既に廃止となってしまいました。他にも現在、存廃を取り沙汰されている路線がいくつも存在します。
バスに転換されたところでも乗客の落ち込みに歯止めがかからず、維持が難しくなっているケースは少なくありません。
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