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4.ユダヤ教,キリスト教,イスラム教とエルサレム?

ルサレムとは、ヘブライ語で「平和の町」の意味があり、ユダヤ教,キリスト教,イスラムの聖地となっている。今も紛争が絶えず、あまりにも不釣合な名を持つ町だ。どうして聖地が重なってしまったんだろか?...調べてみると、まあ、高校の授業で聞いたことばっかし(なんであの頃はあんなに眠かったんだろ)

ダヤ教,キリスト教,イスラム教、元々は同じ宗教と言っても過言では無さそうだ。同じ唯一神を崇め、同じ啓典を尊び、だから、理由は微妙に異なっても同じ場所を聖地とする。

ず、ユダヤ教にとっては、...
ユダヤ教は、紀元前13世紀,モーセに導かれたユダヤの民がエジプトを脱出しパレスチナに入った頃に遡る。モーセを通してユダヤの民に語られた律法がユダヤ教の中心であり、唯一神ヤハウェの前でこの律法への忠誠を誓ったそうだ。
元前11世紀に興ったイスラエル王国の王ダビデが、地理的な条件の良さ考えて、エルサレムを首都とし、モーセの律法を記した石版が収められた櫃(アーク)を安置した。そして、その息子のソロモンがそのアークを収めるための神殿を建設し、イスラエル王国は絶頂期を迎える。
しかし、ソロモンの死後(BC930)、王国は南北に分裂し、北のイスラエルはアッシリアに滅ぼされる(BC722)。その後、南のユダ王国もバビロニア(現在のイラク)のネブカドネザル帝王に滅ぼされ(BC538)、多くの住民はバビロンに連れて行かれた(バビロニア捕囚)。しかし、彼らはバビロニアへ完全に同化することなく民族の宗教的規範を確立し今日のユダヤ教の基礎を築く。
の後もユダヤは、キリシャ,ローマの大国に征服される。ローマにより、ユダヤの王に任命されたヘロデは荒廃したソロモンの神殿を再建した。その時の基底部分が、神殿の遺構を示す「嘆きの壁」として、ユダヤ教の崇拝の対象となっている。 ユダヤ教の特色は、唯一神ヤーフェとの契約を厳しく守り、そして救世主が現れ、この契約を守るユダヤの民のみが救われる、ところにある。

ぎに、キリスト教にとっては、
イエスは、前述のヘロデの統治する時代(BC37-BC4)にベツレヘムで生まれた。ナザレに住んでいた両親:ヨセフとマリアが故郷のベツレヘムに戻った時の事と言われている(国勢調査の為に戻ったのだそうだ)。この頃のユダヤ教は律法第一主義に陥り、一般の民衆は息詰まる状態だった。その中でイエスは、ガラリア湖近辺で宣教活動に入り、精神的で普遍的な愛を唱えていった。イエスの言動は、家の秩序,社会の秩序を否定し、全てを神の元に捧げることを要求する。ユダヤ教の考え方をことごとく否定する反律法的なものであった。
約聖書によると、ユダヤ人がイエスを捕らえ十字架に架け、そして処刑に追いこむ。紀元後30年4月9日、処刑されて3日後にイエスは復活し、キリスト教2000年の歴史が始まる。この、イエスが十字架に架けられ、そして復活した場所、「ゴルゴタの丘」が重要な聖地とされ、現在は聖墳墓教会が建つ。

して、イスラム教にとっては....
イスラム教は、7世紀初めにアラビア半島のメッカで生まれたムハンマド(マホメット)が唯一神アッラーの啓示を受けて広めた宗教である。当時のアラビア半島にはエルサレムから離散した多くのユダヤ人が住みつき、その影響を多く受けていると言う。イスラム教の初期の段階では、礼拝を行う方向(キブラ)はユダヤ教にならってエルサレムの神殿の方向を向いた。同じ啓典の民としてユダヤ人との友好的な関係を目指していた。しかし、彼らはムハンマドを預言者と認めず、納税にも従わず、次第に対立して行き、ムハンマドはキブラをメッカへ向ける事となる。そして、メディナのユダヤ教徒を追放して対立は決定的となったと言う。
スラムの聖典コーランでは、ムハンマドが亡くなる時に翼のある天馬でエルサレムを旅し、そこで昇天したとされる。現在の「岩のドーム」である。この岩は、アブラハムがその子イサクを生贄に捧げようとした祭壇であるとユダヤ教徒が信じてきた聖岩でもある。 ここで最大の悲劇は、「岩のドーム」のある神殿の丘の西壁が「嘆きの壁」である事だ。
スラムによると、「神はアブラハムに啓示を与えたが、続く者が堕落し世が乱れたので、イエスによって世直しを図ったが、人々は神ではなく単なる人間であるイエスを拝みだしたので、ムハンマドを使って再度、神の言葉を伝えた」ことになっている。この神の言葉が「コーラン」なのだそうだ。〜んっ、すんごいロジックだ。

やっぱり、エルサレムには行ってみたい。でも、最近(2001.5現在)の"きな臭さ"では、とても無理だな〜。ちょっと、最近の経緯を調べてみっかな。
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