韓国旅行記:ヨン様の国,ソウル・木浦・珍島・光州・麗水・晋州・統営・鎮海・釜山の歩き方

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10.釜山からソウルへ、そしてソウルとの別れ
成田からソウルに入り、ソウルから南下して木浦、珍島、光州、麗水、晋州、統営、釜山、鎮海へ行く
本に出てくる写真 本の文章 撮影者
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太陽のように明るくなった明洞の夜の照明とは対照的な、ソウルが真っ暗な闇夜になった十九年前の消燈避難訓練をここで紹介する。

《●死語になった戦時を想定した消燈避難訓練》

私が強烈な印象を受けた夜の消燈避難訓練を御紹介したい。多分、それは一九八四年八月の夜であった。何時だったかは記憶していないが、まだ夜中になっていなかったのは確かであり、九時か一〇時頃だったかも知れない。

その時私は、初めてソウルにやって来たばかりでホテル生活をしていた。ホテルのボーイがやって来て、今晩訓練のため消燈します外出してはいけませんと言った。
ボーイが言った予告時間が来ると、多分ホテルの電源元のスイッチを切ったのであろう、部屋の灯りが一斉に消えて、屋外でサイレンがなり始めた。屋外ではサイレンの音声が大きくなり、なぜかは分からないが人の怒鳴り声がして、異様な雰囲気が締め切った窓ガラスを通して私が居る部屋の中に伝わってきた。屋外でも、きっと関係者が大声を上げて避難訓練の指示をしているのであろう。

私は、部屋のカーテンをほんの少しだけ開けてホテルの外を見た。いつもはネオンと街灯が輝いているソウルの街中は、人通りも途絶えて静かで真っ暗な闇であった。時おり通る車は訓練に使われる車であろうか、それとも特別に通行許可を取った車なのであろうか。
また、ソウル市内にある南山山頂付近(南山タワーからだったと思う)から照射される一本の太い照明光が、けたたましく鳴り響くサイレンの音に呼応するかのように、上下左右に動き回りながらその真っ暗な闇夜を照らし出していた。
消燈はどのくらいの時間続いたのであろうか、三〇分程度だったのであろうか。やがて、訓練が終ったのであろう、サイレンの音がしなくなり、ホテルの部屋の電燈がともり、すぐに街中にもいつもの明るさと喧騒が戻った。

これは、北朝鮮の侵攻を想定しての避難訓練であるが、私が韓国にいた五年間で、この時を入れて三回の消燈避難訓練を記憶している。もう一回は一九八五年夏の夜、ソウルの我が家で家族と一緒に経験した。残りの一回は何年だったか忘れたが蔚山(ウルサン)のホテルで出張中に経験した。
もう、戦時を想定したこのような大掛かりな訓練はとっくに無くなり、消燈避難訓練はほとんど死語になったいるかも知れない。

03年08月01日

松尾波笑
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《光化門》 数十メートルだけ北へ行くと東西に走る大通りである社稷路に出た。社稷路を一〇〇メートルくらい西へ行き、地下道をもぐって向かい側(北側)に出ると光化門があった。
光化門の前に立って、じっくりと建物を見た。近くで見ると、土台となっている一つ一つの石は以外に大きかった。
光化門から北にかけた一帯に、広範囲にわたり景福宮の色々な建物が建てられている。
光化門を南から北へ通り抜けると広い広場に出た。【写真(旧朝鮮総督府の跡地である北側から見た光化門)】

03年08月02日

松尾波笑
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この広場には、数年前まで巨大な朝鮮総督府が建っていたが撤去された。巨大な朝鮮総督府は、李朝時代の王宮である景福宮を覆い隠すように正面に建設され、旧日本植民地時代に朝鮮を統治していた。韓国政府が、植民地時代を象徴するこの建造物を撤去したいと考えたのは最もな話である。
私は、五年間の駐在中にたった一度だけ景福宮を見学し、当時博物館として利用されていた旧朝鮮総督府の建物の中に入ったことがあった。一度だけの時間をかけない見学であったため残念ながら少しの記憶しかない。ただ、素晴らしい大理石を使い、重厚壮大で荘厳な建造物であったのを覚えている。

旧朝鮮総督府の跡地には、新しく興礼門が建てられていた。【写真(旧朝鮮総督府の跡地に建てられた興礼門)】

03年08月02日

松尾波笑


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