韓国旅行記:ヨン様の国,ソウル・木浦・珍島・光州・麗水・晋州・統営・鎮海・釜山の歩き方

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3.木浦
成田からソウルに入り、ソウルから南下して木浦、珍島、光州、麗水、晋州、統営、釜山、鎮海へ行く
本に出てくる写真 本の文章 撮影者
写真 -------------------------------------------------------------------------------
少し視点がそれるが、ここにおいては、なぜ韓国人が権力に異常なまでに執着し、一度手にした権力を決して手放そうとしないかについて私見を述べたい。

《●なぜ手にした権力を手放せないか?権力を失った人は廃人と同じにされるから》

人間は誰でも一度権力を手にすると、その権力の魅力と魔性に取りつかれ権力を手放そうとはしない、それは真理である。
特に韓国ではその傾向が強いような気がする。それは、韓国においては時の権力者が「いいめ」をできるからである。「いいめ」ができるのは、権力者が絶対的な権力を誇示し、勝手気ままに私利私欲に走っても、周囲にそれを容認する土壌があるからである。韓国では、ボスが力を発揮し、力のない人間がボスに従うのは自然な姿なのである。
数年前、当時の金泳三大統領が韓国人独特の恨の心から、権力を失った全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領の過去の不祥事を取り上げて蒸し返し、元大統領と前大統領を罪人として激しく攻撃した。このように、現在持っている権力を手放すやいなや、代わりに権力を握った人間からしっぺ返しを食らう土壌においては、一度手にした権力をなおのこと手放せなくなるのである。
このように、大統領であろうとも権力を失った途端に、ただの人や廃人同様になりかねないのである。

かっての大統領もこの辺りの事情がよく分かっていたとみえ、自ら大統領の地位を決して手放さなかったのである。
彼等は、時の法を変えてでも権力の座にいつまでも留まることに執着した。そうして、初代の李承晩大統領(大統領在位十二年間)は民衆のデモによる失脚で、三代目朴正煕大統領(大統領在位十六年間)は暗殺で、本人の意志に反してその権力の座を降りることになった。
法の定めに従い大統領の在位期間を終え、自らの意志で権力の座を降りたのは、実質的に第五代全斗煥大統領からである。
第五代全斗煥大統領の時代に、私は韓国に駐在していた。その時現地の友人に聞いたところ彼は、大統領が七年間の任期を守って一九八八年二月に辞めるかどうか分からない、信用できないと言った。自らの意志で大統領の地位を降りた前例がないから、とてもじゃないが信用できないのである。
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03年07月27日

松尾波笑
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私は、まず左手にある千鶴子さんが眠っている墓地へ行った。墓地の入口を入ると正面に石碑があった。墓地全体は長方形で、地面は草が低くきれいに刈り込まれ、周囲にはほど良い大きさの木々が植えられて緑々していた。しばらく石碑の前に立ちじっと碑文を見た。
【写真(お母さんの塔)】

石碑の中では一番大きな字で『オモニエタム(お母さんの塔)』と書かれており、一番下に『一九一二.一〇.三一〜一九六八.一〇.三一』と記されていた。誕生日と命日が同じで、五六才の一生である。・・・・・・何か私の胸に込み上げてくるものがあり、両手を合わせて心からお祈りした。
千鶴子さんは、毎日、前方の狭い視野(左右の丘が海に突き出ていて視界が狭くなっている。さらに現在は、真正面に建設された新安ホテルが視界を大きくさえぎっている。)の中に広がる海を見ながら、時々儒達山の山頂を見上げながら、儒達山の麓のこのわずかな平地の上で、雨の日も、風が強い日も、海が荒れる日も、暑い日も、寒い日も多くの孤児を育ててきたのだと思った。
墓地の入口近くにまだ真新しい石のプレートが埋め込まれており、その中に日本語で次のように書かれていた。『寄贈、梅花木二〇株、日本国総理小渕恵三、二〇〇〇年四月一八日』


私はこの後、唯一、人の気配がする事務室を除いて、各設備をひとつひとつ見学して回った。お母さんの塔の真上(岡側)にある『宿舎』の玄関や裏手へ行き、それから宿舎の隣の『図書館』へ行ってみた。近くでせみの鳴き声がしているが不気味なほど静かである。戸外から、ガラスの窓越しに図書舘の中をのぞいたが誰もいない。私は自分が、空き巣をやっているような気分になった、そしてせめて最初に事務室へ挨拶に行って、共生園の建物を見学させて欲しいとお願いしておくべきであったと後悔した。・・・・・・結局、ほとんど共生園全部の設備を外から見て回ったが誰にも合わなかった。空き巣の精神状態になっていた私は誰にも会わなくてほっとした。

03年07月27日

松尾波笑
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ひと通り見て回ったので、下の広場に降りていくと大きな空間が広がった。広場のさらに下は、自動車が走る海岸沿いの大通りになっており、その大通りのすぐ下は海であった。
私は広場に立ったまましばらくの間、広い空間が拡がる周囲を見つめていた。

すぐ目の前では教会前のブランコや砂場で、四〜五人の小さな子供が遊んでいる。下の方を見ると狭い視野の中に青い海が見える。(左右両側の突き出た丘で視野がさえぎられ、海は狭い範囲でしか見えない。)山の方を見ると共生園の各建物のはるか上空に遠く儒達山山頂がみえる。
私は高くて目立つ儒達山山頂を写真に撮った。【写真(共生園と儒達山山頂)】

その辺りで遊んでいる子供の母親と思われる三〇代くらいのアジュマが、私が写真を撮るのを何となく見ていた。アジュマがそばに来て、景色が綺麗でしょうというようなことを言ったが正確には聞き取れなかったため、はい儒達山がよく見えますねと曖昧な返事をした。私は、これを機会に共生園について色々聞いてみたいと思ったがなかなか韓国語が出て来ない。
・・・・・・言葉に窮した私は、この教会や遊び場と共生園はどんな関係がありますかと聞いた、そしてすぐ馬鹿なことを聞いてしまったと思った。・・・・・・当然、深い関係があるに決まっているではないか。

03年07月27日

松尾波笑


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