A. 本の概要

≪最初の24ページ分(出だしの部分):実際の本はもちろん縦書きです≫


1.韓国への思い


 
この本は、二〇〇三年の夏、一人で韓国の南部地方を旅した時の旅行記である。 もう少し付け加えると、日本と地理的に近く昔から交流が密であった韓国第二の都市釜山を初めとした南海岸地方を訪れるとともに、釜山港の沖合いに浮かぶ五六島を探し続けた一週間の旅の記録である。



実は私は、一九八四年から一九八九年まで五年間、日韓合弁会社の駐在員としてソウルで生活したことがある。日本に帰国後、韓国再訪を熱望したものの機会を逸し続けた。今回やっと念願がかなって一四年ぶりに韓国へ行くことになった。嬉しいことに今回の韓国行きは夏休みをフルに活用した長期間のプライベートな旅行である。

この旅では、昔、関わりのあった思い出の地とまだ行ったことのない新しい地を訪れ、とにかく一四年前の記憶を蘇らせて一人で懐かしい自己満足の世界にどっぷりと浸りたいと思ったが、その願いは果たしてかなえられたのであろうか?

それでは、旅行記を紹介する前に、少しだけ寄り道をさせていただくことにする。

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何年前であったろうか、チョーヨンピル(趙 容弼)がNHKの歌謡番組で『釜山港へ帰れ』を歌っているのを聞いたとき、体内を稲妻が走り抜けるような強い衝撃を感じた。この時のことを思い出しつつ、まずは『釜山港に帰れ』についてお話したい。

私は深酒をすると、『釜山港へ帰れ』という歌を聞くのも歌うのも好きになる。この歌を聞くと何となく、心のふるさとに戻った気分になり、落ち着き、感激し、そして、やがてぼんやりと物思いにふけるのである。

それはさておき、『釜山港へ帰れ』の日本語の歌詞は次のとおりである。
  椿咲く春なのに
  あなたは帰らない
  たたずむプサンハンに(釜山港に)
  涙の雨が降る
  あついその胸に 顔うずめて
  もう一度しあわせ かみしめたいのよ
  トラワヨ プサンハンへ(帰って来てね釜山港へ)
  逢いたいあなた
    黄 善友 作詞作曲、 三佳令二 日本語詞
この歌は、釜山港で今か今かと恋人を待つ女性の心境を歌ったものであり、彼女の恋人に対する熱い思いが伝わってくる。
私の第二の故郷であると信じている韓国に対する熱い思いを満たしたい。その一つとして、実際に釜山港に佇み『釜山港へ帰れ』に登場する、恋人を待つ女性の心境に浸ってみたいと思いながら今回の旅を思い立ったのである。

この日本語の歌詞と、次に紹介する原文である韓国語の歌詞が意味するところは少し違っている。日本語の歌詞では恋人同士の別れを悲しみ、韓国語の歌詞では兄弟の別離を悲しんでいる。

韓国語の歌の題名は、『トラワヨプサンハンエ(帰れ釜山港へ)』であり、韓国語の歌詞の発音とその意味は次のとおりである。
  コッピィーヌン トンベクソメ  (花咲く椿の島に)
  ポミ ワッコンマン  (春が来たものの)
  ヒョンジェトナン プサンハンエ  (兄弟が去った釜山港に)
  カルメギマン スルピウネ  (カモメが悲しく泣くだけね)
  オーリュクト トラカヌン ヨンラクソンマダ  (五六島を(通り過ぎて)帰って行く連絡船ごとに)
  モンメオ プロパド  (悲しみにむせんで呼ばれてみても)
  テダボヌン ネーヒョンジェヨ  (返答がない私の兄弟よ)
  トラワヨ プサンハンエ  (帰って来てね釜山港に)
  クリウン ネーヒョンジェヨ  (恋しい私の兄弟よ)

私が韓国語を忠実に和訳したものがカッコ内の日本語である(忠実に和訳しているため日本語として不自然なところがある)。

  この韓国語の歌詞に出てくるオーリュクト(五六島)を実際に見ながら、物思いにふけりたいと思いつつ今回の旅に出ることにしたのである。

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  旅の行程は、成田からソウルに入り、ソウルから南下して木浦、珍島、光州、麗水、晋州、統営、釜山、鎮海、釜山と韓国の南部地方を西から東にかけて移動した後、再び、ソウルに戻ってくる七泊八日の一人旅である。【旅の行程図参照】


私の旅の出で立ちは、夏の太陽光線をさえぎるために丸いツバが特別大きな帽子をかぶり、着替え用の衣服を入れた大き目のリュックサックを背負い、デジカメとパスポートと一冊の旅行案内書を入れた小さなバッグを肩にかけ、頑丈な運動靴をはいた行脚スタイルである。

それでは、以下のコメントを紹介してから韓国旅行記の本文に入ることにする。

■本書に書かれている現地の人との会話はすべて韓国語でやり取りしたものである。

■また、韓国通貨であるWON(ウォン。以下においてWと書かせていただくことにする。)と円との換算レートは約一〇対一である、つまり一〇〇〇Wは一〇〇円に相当する。

■本書の中で、アガシ、アジュマ、アジシという三つの言葉(韓国語)を使用させていただくことにする。これらの言葉を口にするやいなやすぐに、自分が韓国にいるような気分になれるからである。
アガシは未婚の若い娘さん、アジュマは結婚したおばさん、アジシはある程度成人したおじさん(男性)のことであり、適用される年令はきわめて幅広い。

■今現在、韓国の公衆向け標識、看板、店名、メニューなどに書かれている文字は、ハングルだけであるが将来漢字を併記していただきたいと私は切に思っている。

現在のハングル文字だけによる標示は、朝鮮民族が誇りにしているハングルを広く世界に流布したい気持ちの現われであろうが、折角の漢字使用民族である中国や日本からの旅行者をも大いに悩ませている。要はハングルだけの食事メニューでは旅行者は何を注文して良いか分からないのである。

近い将来、街中が漢字を併記した標識、看板、店名、メニューであふれ、それにより韓国語ができない中国人や日本人の個人旅行が飛躍的に増えることを願っている。






2.ソウルとの再会、そしてソウルから木浦(モッポ)へ


 
【二〇〇三年七月二六日(土)、小雨(千葉)】
私は久しぶりの韓国訪問に興奮して、七月二六日朝早く千葉の自宅で目がさめた。
早めに家を出て、成田空港に着いたのは六時半であった。空港で、出発便ご案内のボードを見ると、『九:三〇分発、大韓航空、KE七〇六便、ソウル行き』と、一番上に表示されている。つまり、私の乗る飛行機が、本日最初に成田を出発する、記念すべき第一号便なのである。
私は、気持ちの高揚を抑えつつ、成田空港第一旅客ターミナルAカウンタにある大韓航空チェックカウンタで、午前七:三〇分に早々と搭乗手続きを済ませた。午前八:〇〇分に本日オープンしたばかりの出発口を一番乗りで通り抜け、手荷物検査と日本出国手続きを終えてから、飛行機に乗るため二三番搭乗ゲートへ向かった。

私は成田からソウルへ飛行機で飛び、ソウルの中心地にあるソウル駅で長距離電車に乗り韓国の南西部にある地方都市、木浦へ今日中に到着する予定である。
今日中に私は木浦に入るのだと想像するだけで、私の気持ちは少しづつ韓国モードに傾いてきた。


【二〇〇三年七月二六日(土)、晴れ(ソウル)】
搭乗する飛行機は、九:三〇分成田発ソウル行き(大韓航空、KE七〇六便)である。
九:〇〇分に予定どおり搭乗が開始され、九:一五分に我が座席三九Kに着席した。
スチュワーデスが、
「イヤホンピリョハシムニカ(イヤホンは必要ですか)?」
と言った。
ああ懐かしい、これが飛行機の中で一四年ぶりに聞いた最初の韓国語であった。なんときれいな発音だろう。

九:三五分に飛行機が移動を開始して、一〇分後の九:四五分に離陸した。離陸するやいなや、一、二分であっという間に雲の中に突入し、やがて周囲が明るくなり飛行機は白い雲のじゅうたんの上を上昇し続けた。離陸後、約一〇分で高度一万メートル、飛行時速九〇〇キロメートルの定常飛行状態に達した。通常の経済的な飛行高度である一万メートルに、わずか一〇分で到達できるとは最近の技術は進歩したものだと自分で勝手に感心した。
一〇:三〇分にスチュワーデスが食事を配り始めた。メニューは、中華丼(カニのうま煮)、パンとバター、缶ビール、水、コーヒーと紅茶、フルーツのデザートであった。
私は朝から何も食べてないためかぶりついて美味しく食べた、空腹は何よりのご馳走である。
飛行機が、約二時間静かな飛行を続けた後、徐々に高度を下げ十一:三五分に雲の下へ出たとたん、突然、眼下に海とたくさんの小島が見えてきた。石を散りばめたような小さな無人の小島もある。やがて仁川空港が現れ、最後に、左右一直線に長く広がる低い空港の堤防に対して垂直に進行し地上に着地した。


私は、荷物を預けなくてすべて機内に持ち込んでいるため、自分の到着荷物を待つ必要がなく、飛行機から降りるとすぐに、韓国の入国審査を済ませて、空港出口へ向かった。
空港出口の内側(飛行場内の側)に両替所があったので五万円を換金して、四九万W(WはWONを意味する)を受け取った。後で分かったことであるが、ここの換金レートは高く、ここでの両替は私にとって正解であった。後で気付くことになるが、空港出口のすぐ外側にたくさんある両替所(看板に外換銀行と書いている)のレートは四八万Wであった。

空港出口を遂にでた、さて、次は韓国内で使用する携帯電話を借りなければならない。近くにいる、空港職員らしき制服を着たアガシ(娘さん)に携帯電話を借りたいのですが、どこへ行けばいいですかと聞いた。
教えてくれたところは、空港出口から二百メートルくらい離れたところであり、そこに携帯電話を貸し出す所があった。レンタル電話(SKテレコム)の表示があるその貸出所では電話を借りる人が大勢並んで待っており、若くて初々しい女性四人が忙しく対応していた。
待っている順番を書いた予約カード(銀行窓口で使っている予約番号札と同じ)を受け取ってから一〇分待ってやっと私の順番がやってきた。私はほんの一〜二分で電話を借りれると思ったが、前の人が手続きに手間取り一〇分も待たされて、イライラしてきた。・・・・・・・・・・・・・・・・・そして私はすぐに、十九年前に初めて韓国に来た当時を思い出して反省した。何をイライラしているのだ、ここは日本ではないのだ、私は外国人であり少数者であり異端者なのだ、たかが一〇分間ゆっくり待てば良いではないか。外国人はその国のペースに合わせてこそ安穏と幸せが得られるのだ。(十九年前に初めて韓国に来た当時、まず、この国のペースに馴染めなくて腹が立ち当惑し落ちこんだ。しかしながら、時間が経つとその国のペースがやがて心地よい生活リズムになり、かって味わったことのない快感と満足を得られるようになるということを私は五年間の韓国生活で学んだ。)
係りの女性が、韓国内での使い方や日本への電話のかけ方を教えてくれた。なお、日本語で書いた操作説明書をくれるため、このときのアガシ(娘さん)の話しを理解できなくても問題はない。


さてこれから、木浦行きの電車に乗るためソウル中心地にあるソウル駅へ行かなければならない。

借用する携帯電話を受け取った後その辺にいる人に場所を聞いてソウル行きリムジンバスのチケット売り場へ行き、仁川空港からソウル駅までの切符を買った。一万二〇〇〇Wであった。

リムジンバスは、一一A乗り場から一三:〇〇分に仁川空港を出発、乗客は私を入れて九名であった。バスの座席はゆったりとしていて、飛行機のファーストクラス並みであった。
出発して一五分後に、左右に海が見えると同時に正面に大きな橋が現れた。橋の上をバスで走りながら、私は今、仁川空港のある島から本土の朝鮮半島側へ渡っていると思った。
一四年前は、もちろん仁川空港はなく、国際線もソウル市街に近い金浦空港を使っていた。
リムジンバスは、ひたすら走りつづけ、ソウル市内を流れる大きな川、漢江を渡ってまもなく、一四:〇〇分にソウル駅に到着した。【ソウル駅正面入り口】

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(ソウル市街図参照:「十、釜山(プサン)からソウルへ、そしてソウルとの分かれ」の中に記載されている「ソウル市街図」を参照して下さい。)

ソウル駅前広場近くに停車したリムジンバスを降りるとソウル駅の建物が見えた。かってソウル駐在中は毎朝通勤中にこのソウル駅を見たものである。日本統治時代に東京駅と同じ時代に建てられた、東京駅に似た赤レンガ色のソウル駅を見るとなぜだかほっとした記憶がある。
それにしても今日のこの混雑振りはすごい。学校が夏休みに入って最初の土曜日のせいであろうか、ソウル駅周辺にあるバス停付近はものすごい人込みだ。


さて、私が木浦を初めて訪れる目的は、地元では有名な儒達山に登り山頂から眼下に木浦市街や海を眺めること、孤児院の共生園へ行くこと、木浦港に佇み古い港町の哀愁を感じ取ることである。
一般の人が描く木浦のイメージとはどんなものであろうか?それはさておき、私が木浦という言葉から連想するものを紹介したい。
私が小学生の頃、世界地図を見ると韓国の西南端の離れに小さな丸印があり、そこには「木浦」という文字がポツンと小さく記されていた(上のソウルの位置には赤くて大きな二重丸が記されていた)のをなぜだか鮮明に覚えている。
木浦は戦前において、流行歌「木浦の涙」や日本への米や綿花の積出港として有名であったため、戦後すぐ生まれた私の記憶の中にはそれらの残像が残っており、「木浦」という言葉には悲しい流行歌が似合う古い港町というイメージがあり、戦前戦後の哀愁を感じる。
なお、共生園とは、一九九五年に製作された日韓合作映画「愛の黙示録」のモデルになった日本人女性、田内千鶴子さんがお世話した木浦にある孤児院である。


ソウル駅正面入り口を入ってすぐ左手に『本日の切符』と案内表示の出ている切符売り場に、大勢の人が並んでいた。とにかく、今日は人が多過ぎて、ソウル駅構内全体が異常に混雑している。『本日の切符』という案内表示を見ただけでは、木浦行きの切符をこの広い構内のどこで売っているか見当がつかない。
その切符売り場のすぐそばの、電車が出発するプラットフォームへ通じる入り口で切符の検札をしている係員(女性である)に聞いた。
「木浦へ行く切符はどこで売っていますか?セマウル号の切符はありますか?」

検札係員曰く。 「今日はセマウル号はありません。」(私は、セマウル号に関しては切符が売り切れたのではなくて出発する電車自体がないと理解した。)
「ムグンハ号でも良いのですが?」と聞いた。
検札係員は、左の方向を指さして曰く。
「インフォメーションで聞いて下さい。」
係員が指さした方向へ二〇〜三〇メートル進むと、確かにハングル語で『総合観光案内所』という大きな表示を出している窓口があった。
ここでは、案内をするだけでなく、切符も発売していた。私はさっそく切符を申し込んだ。
「木浦までの切符を下さい。どんな電車でもいいです。」
切符を売っている係員(女性である)が、間髪を入れず即座に答えてくれた。
「夜遅くソウルを出発するムグンハ号を除いて他の切符はありません。」
切符が売り切れて無くなることは、日本にいるときに予想したことではあるが、やはりがっかりした。ソウルを夜遅く出発し、夜中の二、三時に木浦に到着するわけには行かない。こうなれば、今日は便数が豊富な高速バスで木浦へ行くしかないと結論を出した。

急に先のことが心配になり、その場で来週釜山からソウルに帰って来る電車の切符を申し込んだが、こちらはすぐ買えた。買った切符には、『セマウル号、二〇〇三年八月二日、釜山発一四:〇〇分、ソウル到着一八:二八分、一般室、三号車四六番、三一九〇〇W』と書いてある。これで、釜山からソウルまでの帰りの長距離切符を確保したことになる。

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さて、今日高速バスで木浦へ行くためには、バスが出ている高速バス乗り場(高速バスターミナルと呼ぶ)へ移動する必要がある。高速バスターミナルはソウル市内の中心部からかなり離れた所にあり、今私がいるソウル駅から地下鉄で三〇分かかる。


ここでハプニングが発生した。私が日本から持参した六四MBのデジカメのメモリが不良品のため使用できないことが判明したのである。
(後日談であるが、私が今回旅を終えて日本に帰ってから二ヶ月後に、デジカメメーカから自宅に、不良品である六四MBのメモリを無償交換するという通知(つまりリコール通知)の手紙が来た。)

少し補足すると、日本で新規購入した六四MBのメモリを装着して写真を取り続けていたが、累積撮影枚数が八枚目ぐらいで急に撮影不能になったのだ。別の六四MBのメモリを装着して撮影しても同様な現象が出た。ということは、六四MBのメモリは使えないということであり、以前から使って問題がない実績のある十六MBのメモリ(今回、日本から一枚だけ持参してきた)を何枚か急遽入手する必要が発生したのだ。


十六MBのメモリを手に入れるチャンスは、ソウル市内の中心部にいる今この時しか無い。 私は、急きょ一四年前を思い出し、ここから歩いて三〇分で行けるロッテ百貨店へ行って十六MBのメモリを買うことにした。 まず、ソウル駅からすぐ近くの南大門を目指して歩いた。もちろん、かの有名な南大門とも一四年ぶりのご対面であるが、昔と同じ姿をしていた。同じ姿であろうと、久しぶりに対面すればなつかしいのに変わりはない。【南大門】



南大門の屋根の一番上の部分が、全体にわたりコンクリートで補強をされているのが白く見える。この部分は、私が昔駐在していたころ、突然(外国人は新聞を読んでいないため日頃の情報に疎く、私にとって突然なのは当然であるが)補強されたものである。
私が勤務していた合弁会社の現地社員と一緒に、たまたまこの南大門を車で通り過ぎたことがあり、その時、日本語がうまくない彼がカタコトの日本語で、『関係者は頭が悪いから、コンクリートなんかを塗ってしまった。馬鹿なこった!』という意味のことを、強くはき捨てるように言ったのを思い出した。その時、私も全く同様な気持ちであった。

南大門や日本のテレビ放送でよく放映されている南大門市場を通り過ぎて、新世界百貨店(戦前の旧三越ソウル支店)に寄ってデジカメのメモリを売っていないことを確認した後、本命のロッテ百貨店へ向かって歩いた。


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ロッテ百貨店へ向かう途中の大通りにある交通信号灯が昔と変わらず忙しく点滅していた。この素早く点滅する交通信号灯に関して私の持論を紹介させていただく。

《●五秒で変わる交通信号灯》 韓国へ初めて行って横断歩道を渡るとき誰でも驚かされることがある。それは、交通信号灯の点灯時間が短いことである。
横断歩道中を示す青信号は、五秒は大げさにしても一〇秒くらいで点灯から点滅に変わり、すぐ黄色に変わり、すぐ赤色に変わる。これにより、弱者である歩行者は常に早く渡るように、強者である車から強迫されている気分になる。私は、この青信号の点滅を見るたびに、「パリパリハセヨ(すぐしてください)」という韓国語を連想するとともに、韓国における人よりも車を優先する社会や強者優先主義を思い起こすのである。
また、「パリパリハセヨ(すぐしてください)」は常に耳にする言葉であり、この言葉が意味する「せっかちさ」は韓国生活における基本のリズムである。韓国はお互いにパリパリハセヨの精神で努力し、現在の激しい世界の経済競争を乗り切っているのである。

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あまり時間に余裕がないため、ロッテ百貨店内では、すぐ店員にデジカメ売り場の場所を聞きそこへ直行した。メモリは売っていた。一個3万Wの十六MBのメモリを二個買った。円換算すると、日本と同じ価格相場である。
これでとにかく、旅行中のデジカメによる撮影が保証されたことになり、私はほっとして俄然元気になった。
さあ、それでは次なる行動を起こそうではないか!
ここから高速バスターミナルへ直行しよう!

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