●房総特急183系…1
ー「特急らしくない」房総特急ー
KATOから最近発売された183系0番代。
字幕のヘッドマークが入り登場当初のムードで製品化されています。
1972(昭和47)年というのは、特急列車にとって重要な意味を持つ年だったといって過言ではないと、作者は考えます。「房総特急」の誕生もこの年でした。
この年、待望の総武線東京地下駅が完成し、不便だった両国駅に代わって新しい房総地区へのターミナルとして使用が始まりました。
房総一周電化も完成して新鋭の特急電車、183系が外房線「わかしお」、内房線「さざなみ」として走り始めましたが、当時の「特急」の常識を大幅にはずれた「房総特急」の登場は、利用者や鉄道ファンのブーイングの嵐を呼びました。
その理由はあまりにも遅すぎることでした。表定速度は50km/h台そこそこ、両国発で存置されていた急行との時間差は10分程度というひどさです。料金の格差が非常に大きかったことも利用者の反感を買いました。
車両の方に目を向けると、「月光型」に倣った「顔」になり新鮮なイメージを受けます。寝台車に比べて細身の車体に「電気釜」のような顔というスタイルは、これ以降しばらく国鉄型特急電車のスタンダードとなりました。
車内には簡易リクライニングシートが採用され、サービスアップを図る努力はなされていましたが、シートを離れるとリクライニングが戻るためバタンバタンうるさく、予期した評判は得られませんでした。そしてそれ以上に食堂車等の供食設備が存在しないこと、混雑対策のために2箇所になったドア、全体的に進歩していない色使いの内装…等、どうしても「特急の短距離化・大衆化・沈滞化」を反映した設計が目に付いてしまいます。
当時、もう既に東京ー伊豆急下田間の「あまぎ」、上野ー万座・鹿沢口間の「白根」といった短距離のレジャー特急は、走り始めていました。
しかし短距離とはいえこの種の特急は都市と行楽地をノンストップで結び、同じ区間を走る急行よりは明らかに速く格の高い存在でした。
(例えば「あまぎ」の場合、東京の次はいきなり伊東。東京ー伊豆急下田間を2時間半で走らせるために最大限の努力が払われ、伊豆急線の線路配置を変更したところもあった)
都市と観光地を結ぶ特急列車は昔から私鉄では運転されていましたが、国鉄の特急が「レジャー輸送」を担うようになったのは概ね1960年代以降です。
「あまぎ」や「白根」「そよかぜ」はその嚆矢でした。
写真は157系。GMキットを組んだものです。
本稿ではこの写真のみ山田敦氏制作のジオラマで撮影させて頂きました。
これらの好評から「房総地区も電化を機に特急を走らせ、イメージアップと増収を」という計画が持ち上がったと思われますが、房総地区は
・各路線ともカーブが多くて線形が悪く、地盤そのものもぜい弱。
・当時まだ千葉までは国電と線路を共用する区間があった。
・千葉以遠は単線区間が多い。
・沿線には短い間隔でそれなりの規模の町や観光地が並ぶ、という路線の特性から、思い切った停車駅の整理は困難。
と、根本的な問題があり速く走ることは無理で、150kmあるかないかの区間でこれだけ悪条件が揃えば、急行とハッキリした差をつけることも無理があったのです。
しかし国鉄は抜本的な見直しをすることはなく、やかて急行の特急格上げによる廃止、房総地区以外でも近距離特急が増加したこと等により、房総特急に違和感を訴える人も減っていきました。
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