●画期的だった特急「あさかぜ」
ー始まっていた飛行機との競争ー
20系客車の寝台特急「あさかぜ」。
KATO製の最新モデルで、第一陣として登場した20系が模型化されています。
製品の床下や屋根の色はグレーですが、色調が気に入らなかったので全部総バラしをして、明るい「ねずみ色1号」で塗りました。
1956(昭和31)年、東海道本線の電化と共に画期的な特急列車が走り始めました。
東京ー博多間を走る寝台特急「あさかぜ」です。
何が画期的だったかというと、この時代に早くも飛行機を意識したダイヤを組んだいう点です。
日本の空に定期航空便がはじめて飛んだのは1929(昭和4)年のことで、東京ー大阪間の運航でしたが、戦争により中断、戦後は1951(昭和26)年、東京から大阪、福岡、札幌に一日一便、アメリカの飛行機をチャーターする形で再開されました。
当時の航空運賃は驚くべき値段でしたが、戦後しばらくまで日本では一般の人が飛行機に乗ることは非常に難しかったので、とにかくお金さえ出せば飛行機に乗れるという事になったのは大きな出来事でした。
定期航空便はだんだんと増えていき、庶民にとっては依然として「雲の上の存在」という水準に変わりはありませんでしたが、航空運賃も下がり始めました。
「あさかぜ」は東京を夕方出て翌日の昼には博多に着けるようにしたダイヤを組み、ビジネス客に使いやすく、飛行機にも対抗できる列車として設定されました。一部ではこのダイヤでは関西圏が不便になると猛反対する声があがり、東京ー九州直結の特急で利用者がどの程度あるか不安視する意見もありましたが、このダイヤは新しい試みとして実行に移されます。
ところが九州直通特急の設定にあたっては、特急料金を払って1等寝台を利用すると航空運賃と大差なくなってしまうことが問題になりました。
国鉄ではこの時、1等寝台を廃止して2等寝台に統合、設備によって2等A寝台〜2等C寝台までに区分して寝台料金に差を付け、事実上の大幅値下げを行うという、当時としては異例の施策を打ち出します。
こうして運行を開始した寝台特急「あさかぜ」は大好評で、あっという間に人気列車にのし上がりました。
車両の増結、増発列車「さちかぜ」の運行なども間髪を入れず行われました。が、何分にも不確定要素が多い中での運行開始だったため、車両は急行列車と何ら変わらないものが使われ、特急専用の車両が切望されるようになりました。
そこで1958(昭和33)年、「こだま型電車」と共に登場したのが20系客車です。
華やかな雰囲気を振りまいて走る20系「あさかぜ」。
先頭のEF58は、運行開始当初は茶色でした。
青い「ブルトレ色」の登場は翌々年で、寝台特急「さくら」用の電源車、カニ22型を制御するための装備が追加されています。
車体の構造は「こだま型」同様ですが、何より注目すべき点は編成を固定して他の客車と連結することを考えない設計とし、編成の一端に設けられた電源車からの給電で室内を完全電化、冷暖房完備にしたことです。
従来も冷房車はありましたが、車軸の回転やディーゼルエンジンでクーラーを駆動させるものでしたし、食堂車も石炭コンロと氷冷蔵庫を使用し、整備担当者や食堂従業員にとっては何かと面倒の多いことが問題になっていました。
当時、姫路以西はまだ蒸気機関車の時代でしたが、空調完備で固定窓の車内、防音性に優れた車体構造、空気バネ台車などにより、暑さ寒さだけでなく騒音、振動、煙なども殆ど解消されて、20系客車は大好評を博しました。
美しいブルーの快適な寝台列車はやがて「ブルートレイン」と呼ばれるようになり、北は青森から南は鹿児島まで、多くの旅人の夢先案内人を務めることとなります。
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