●C62型の誕生、そして…
C62型はわが国最大、最速の蒸気機関車です。
登場は1948(昭和23)年で、「戦争の時代へ」の項目でも出てきたわが国でもっとも強力な貨物用蒸気機関車、D52型を改造して造られました。
この当時、敗戦後の混乱で車両も著しく不足していましたが、特に増強が急務とされたもののひとつに「旅客列車用の機関車」がありました。
当時、機関車はまだ蒸機が主力の時代でしたが、蒸気機関車の場合、旅客用と貨物用では足回りの構造が大きく異なり、目的外の使用には無理があるのです。
旅客用で貨車を引いた場合は馬力もしくはトルクが不足し、貨物用で客車を引いた場合は、無理をしてスピードを出すと線路や車輪を痛めてしまいます。
戦時中、軍需物資を運ぶために貨物用の機関車は大量生産されましたが、戦争が終わるとこれらは余ってしまい、逆に買い出しや復員、少し世の中が落ちつくと長距離の用務客といった旅客の需要が激増し、今度は旅客用の機関車が不足してしまいました。
そこで、貨物用機関車の大きなボイラーに、旅客用の足回りだけを造ってとりつけるという方法が考えられ、D51改造のC61、D52改造のC62が誕生したのです。
C62はさっそく東海道本線で花形機関車として活躍を開始します。
1949(昭和24)年には戦時中運行が休止されていた特急列車が復活して「へいわ」と命名され、東京ー大阪間を9時間で結びました。
戦時中整備もままならないまま設備が酷使され、まだまだ復旧が完全でなかったこと、石炭事情が極端に悪かったことなどにより戦前の8時間半よりは遅くなってしまいましたが、特急の復活は当時の人たちに大きな希望を与えました。
EF58型電機機関車から交代して出発するC62型牽引の「つばめ」。
この特急は後に「つばめ」と改名され、年を追うごとにスピードアップが図られます。そして新幹線開業まで、わが国最速の列車として君臨していきました。
当時は浜松まで電化が完成しており、浜松までは新鋭の電気機関車EF58、浜松からはC62に交代していました。
電気機関車からバトンを受けたC62は生命ぎりぎりの激走を続け、大阪をめざしたのです。
ご自慢の展望車も復活しました。
その後3等、2等は次々新型が入りますが、「工芸品」ともいえる内装をもつ展望車は、最後まで戦前型を大切に使用していました。
また1954(昭和29)年にはC62の17号機が、木曽川鉄橋上で行われた試験で129km/hという記録を樹立しました。
狭軌鉄道の蒸気機関車としては世界最高の記録です。
しかし、C62の黄金時代もそう長くは続きませんでした。
電化による撤退は、既に決まっていたのです。
1956(昭和31)年、東海道全線電化が完成すると、C62は西の山陽本線や北の常磐線に転じ、わが国の最重要幹線で最速の列車を引くという桧舞台から、降りる事になりました。
実をいうと 島 秀雄はじめC62の設計陣も
「この機関車では今出来るあらゆる技術を投入し、全ての点において限界に挑戦しよう。そして蒸気機関車では限界までやっても電気機関車や電車には遠く及ばないことをハッキリさせ、これからは電気運転の時代であることを証明するのだ」
という発想のもとに設計を進めたといわれます。
この機関車にまだ多くの人が保守的だった国鉄の技術陣を変えていこうという意図が込められていたことは、案外知られていないようです。
もはや蒸気機関車の時代は、終焉に向かって動き出していたのです。
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