●「地方の時代」が始まる
国鉄型車両は1960年代後半から「規格化・標準化」を第一に考えたものが増強され、各地に標準化された車両が行き渡りました。
しかし1980年前後になると、それまでに比べかなり地域性の強い車両が登場するようになり、旧型車や1950年代に動力近代化の旗手として登場した車両の置き換えに充てられるようになりました。
例を挙げると北海道の781系、キハ183系、関東エリアの185系、201系、電化ローカル線用の105系、関西の117系などです。
これらの中には後に勢力を広げたものもありますが、これまでのように全国レベルの配転を考えてはいないもので、現在のJRの「地域に密着した」車両設計の原点が見られるといってもよいでしょう。
車内設備はそれまでの青、淡緑を基調とした配色からクリーム色、茶色といった暖色系になり、クーラーなどの無骨な吹き出し口もスマートになって、印象も大きく変わりました。
実車の185系電車車内。
しかし、車体デザインはあれこれ工夫はみられるものの、残念ながら1950〜60年代初頭の車両のように「確固たる人気を得た」ものは少ないようです。
また、この時期の車両の大半は非常に重量が大きく、重装備だったことが特徴です。
これは初期の軽量構造が、寿命という点では弱かったことによるものです。
「民鉄なら使えるものを、国鉄はきちんと最後まで使っていない」
という批判が相次ぐ中で軽量化はタブー視され、さらには「国鉄は赤字なのだから長持ちする車両を造ろう」という方向が示されたため、重量は増加の傾向を強めました。
実際のところ民鉄と国鉄では使用条件(運行距離、気象条件、速度など)が異なっており、国鉄の「車両の無駄遣い」論がどこまで的を得ていたのか、結果論からみれば色々と意見が出てくるところですが、当時はそういう情勢だったのです。
もう一つ別の側面として、当時は長期にわたる労使紛争の影響から現場は荒廃を極め、車両の維持管理が行き届かなくなっていたことも、重要な要素です。
車両の設計は「少々整備が滞っても動くように」「粗雑な扱いをしても故障しないように」「整備点検がしやすいことを第一に」という方向に向かっていき、軽量化からどんどん遠ざかっていった面が大きいことも、無視できません。
しかし、車体が頑丈になって長持ちするようになったのはよかったのですが、その分減価償却にも時間がかかるようになりました。
車体の寿命が長くなった結果、陳腐化して新しい車両との格差が大きくなっても簡単に廃車出来ない、機器類の大幅な更新が必要になるなど、経年とともにかえって不合理が目立つようになったのは、意外な落とし穴でした。
そのいくつかの例をご紹介しましょう。
ー117系ー
1979(昭和54)年、関西の主要都市を結ぶ「新快速」にデビューした電車です。
関西の都市間、特に京阪神地域は昔から私鉄との競争が激しく、サービス、スピードでしのぎを削っていました。
国鉄は運賃値上げ、ストの続発、赤字によるサービス低下で1970年代にはすっかり劣勢に立っています。新快速にも急行格下げの153系が充てられ、私鉄特急の前には歯が立たない状態でした。
しかし国鉄の新快速はスピードが速く(京都ー大阪間は国鉄29分、阪急36分、京阪45分)運行エリアも京阪神間にとどまらなかったため、117系は新快速の再起をかけて登場したのです。
117系は特別料金不要ながら転換クロスシートを備えて重厚な内装を誇り、私鉄の特急と遜色ないサービスを提供しました。後に中京圏にも投入されて、名鉄との「中京決戦」の火ブタが切られることになります。
国鉄の新快速は、私鉄との運賃格差が大きかったこともあってその後も長い間苦難の道を歩みます。
しかし、分割民営化前後になって様々なサービスアップが行われ、長い年月の間には私鉄との運賃格差も縮まり、ライバル間の力関係は変化し始めました。かつて「私鉄王国」といわれた関西でも、現在はJR優勢といわれています。
現在117系は後継の221系や223系に新快速の仕事をゆずり、奈良線、福知山線、和歌山線等で活躍を続けています。
ー185系ー
185系は1981(昭和56)年、東海道本線153系の置き換え用に登場した電車です。
これにより東京ー伊豆急下田・修善寺間の急行「伊豆」、183系を使って伊豆急下田系統のみ走っていた特急「あまぎ」は統合され、特急「踊り子」が登場します。
白地に斜めのグリーンのラインというデザインは非常にインパクトがあり、子供や一般の利用者には好評でした。内装の色使いも重厚なものになり、従来の特急電車と雰囲気は一変しています。
しかし185系は153系の置き換え用として登場した経緯があり、普通列車として使用される場合も想定しなくてはなりませんでした。
そこで国鉄では特急用車両は「特急」として運用するという原則を最初から大きく崩し、限られた車両をフル活用して合理化を図ることを第一として、設計をまとめました。
そのためシートは従来の特急型に比べ簡素なものが使われ、リクライニングもない「転換式」が採用されました。ドアは乗り降りに便利なように幅広となり、定員乗車とは限らないことを想定して、窓も開くようになります。
ところが一方で、関西では既に117系がまったく同じシートを装備し「新快速」にデビュー、料金不要で在来線の限界に近い高速運転をしていたことから、鉄道ファンからは大変な不評を買いました。
さらに最初から「特急」と「普通」の共通運用を前提としていた点についても
「あまりにも乗客や車両をバカにしている」
という意見が続出します。
国鉄の特急といえば「特別急行」、長距離を走り、格の高い存在で…という価値観で考えれば、その衝撃の度合いは大変なものだったのです。
その後の国鉄〜JRには、最初から特急にも普通にも…という設計の車両はほとんど登場していませんから、この時期あたりがいちばん「特急の混迷」が深刻だった時期といえそうです。
(JR東海の373系はこれに近いですが、ここまで居住性を犠牲にはしていないと、作者は考えます)
185系はこのように「鉄道ファン」ウケはよくない車両でしたが、明るいイメージは多くの人に受け入れられます。また、先輩の183系に比べてより「近距離特急」に適した構造をもっていたことからさらに増強され、上野から北に向かう路線にも進出します。
1982(昭和57)年からは大宮からの暫定開業になった東北・上越新幹線のアクセス列車「新幹線リレー号」(上野ー大宮)に使用され、新幹線が上野まで開業した1985(昭和60)年からは、特急券を買えば定期券でも乗れる「新特急」(高崎、東北方面に「あかぎ」「なすの」など4系統)として運行されるようになりました。
しかし停車駅は異様に増えて快速並みのレベルになり、一層批判を浴びるようになります。
とはいえ、その後これらのエリアでホンモノの快速電車の運行が始まったこともあって、多くの列車では停車駅の整理が行われました。現在では「新幹線では不便な地域」と東京を結ぶ特急としての地位を築き上げたようです。
最近は「踊り子」「新特急」とも内装がリニューアルされてリクライニングシートが装備され、ようやく特急にふさわしい設備を持つようになりました。
赤とクリームの「国鉄特急型」とJRになってから登場する各種の新型特急との橋渡し的な存在といえるでしょう。
走り装置に関しては国鉄の規格品でまとめられ、これといって目新しい装備は持っていません。
ーキハ40系と50系客車ー
これらの配置は全国的で配転も数多く行われましたが、「地方」を強く意識した設計であったため、取り上げます。
キハ40系、50系客車共に1977(昭和52)年に登場し、前者はキハ17系、後者は旧型客車を置き換えることを目的に製造されました。
しかし両者とも冷房はなく、サービス面では不充分なものでした。
地方の路線バスにも冷房車が普及していく中、国鉄は非冷房車の投入を続けました。
当時既に冷房車は普及しており、地方では自家用車も高い率で行き渡っていました。ところがこれらの系列に限らず、国鉄では「地方向け」車両の冷房搭載は見送られ、地方線区用の非冷房車が冷房化されるのは概ねJR発足以後のことになります。
また、ローカル線用の車両は軽量化され、コストを抑えたものの方が向いていますが、その意味では両者とも造りが必要以上に頑丈だったため重量が大きく、コスト面では従来の同じ目的のものより相当に割高となっています。
50系客車↑は真っ赤な車体がまず人目を引きます。
窓が大きく明るいイメージの「赤い汽車」は、鈍行列車のイメージを一新しました。
この系列ははじめて「通勤列車用」として新造された客車で、出入口付近を広くとって地方都市圏の通勤輸送に適した構造にしていることが特徴です。
性能的には集中電源の固定編成ではなく、従来の旧型客車に近いシステムを踏襲しつつ自動ドアを採用しているという、独自のものとなっています。
従来の旧型客車はほとんど全て長距離用として設計されており、地方線区であっても通勤列車使用はまったく適していない仕事でした。ドア付近だけ混雑し、危険な手動ドアのまま運行されていた通勤列車は不評で、最初から通勤用として製造された客車は、好評をもって迎えられます。
しかし先程触れたとおり50系は非冷房で、サービス上充分ではありませんでした。重量の大きさもご多分に漏れずといったところで、非冷房であるにも関わらず冷房付きの軽量客車と同じ「オ」という重量記号がついてしまっています。
また50系の各種システムは旧客を踏襲しているため、暖房は機関車側の装備に依存しており、最高速度も95km/hとなっています。旧客との混結も可能で12系より編成の自由度がありますが、システム全体が12系より後退している感は拭えません。
国鉄が民営化され、効率化、スピードアップの要請が高まってくると、アシの遅い客車鈍行は、だんだん敬遠されはじめます。
その中で50系客車は青函トンネルの快速「海峡」用に、イベント列車に、はたまたエンジンを積んでディーゼルカーにと、様々な改造を施されるようになります。
また九州のものは冷房を積み、引き続き本来の通勤輸送に活躍しました。
しかし、わが国では客車鈍行そのものが絶滅という運命をたどったため、多くは車体の寿命を全うしないうちに廃車となってしまいました。
キハ40系↑は従来の規格型に代わって新しいエンジンを採用し、車体も大型化して居住性をアップしています。
しかし大きなエンジンを積んではいるものの使い方に余裕をもたせ過ぎていたこと、エンジン自体も燃費が悪かったことなどから非効率が目立ちました。加えて車体重量も大きく、車両としてみると大幅な性能アップを図ることは困難であったため、後になってエンジンを更に強力なものに交換したものや、改造により性能をアップしたものが現れています。
次へ 戻る