●戦争の時代へ

 1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発、日本はドロ沼の戦争の時代へと突き進んでいきます。
 初めは快進撃を続けていた日本ですが、伸びきった戦線に各国の反撃も始まり戦局は次第に悪化してきました。
 「鉄道は兵器」とされ、長距離の移動や一般荷物の扱いも極度に制限されて軍事輸送一色に塗りつぶされていきます。
 しかし、船舶の不足や燃料事情などによって沿岸航路の運行が難しくなってきていたため鉄道輸送は激増、その一方で鉄材や人員、石炭は軍事優先となったため、とうとうギリギリの資材で作られた「戦時設計」の車両が登場するようになりました。
 戦時設計車は各車種に及びましたが、そのうちとりわけ目立ったのが貨物用機関車、D52型でしょう。
 この機関車は1943(昭和18)年にD51を上回る1200t牽引を可能にした、わが国最強の蒸気機関車として登場しました。
 しかし各所に木材などの代用品が使用され、肝心のボイラーも粗製乱造。
 所定の性能を発揮出来ないばかりか大爆発を起こすものまである始末で、満足な状態になるのは戦後しばらくして、ボイラーや状態不良個所の改良が終わってからのことになります。


 模型はマイクロエース製。デフやテンダーに木材が使われている様子が表現されています。

 もう一つ忘れてはならないのはモハ63系電車、通称「ロクサン型」でしょう。
 「戦後」のイメージが強い電車ですが、登場は1944(昭和19)年。やはり戦時下の資材不足の中で製造されたため極めて簡素な造りが特徴で、大量輸送のために腰掛けのない車両もあったそうです。
 しかし一般のイメージ通りロクサン型が本当に大量生産されたのは戦後になってからで、国鉄ばかりでなく東武、西武、南海、山陽などの私鉄用も登場。焼け野原の大都会のアシとして、復興の原動力となりました。


 模型はTomix製の72系です。
 改良は行われていますが、三段窓などに「ロクサン型」のイメージを色濃く残しています。


 ところが1951(昭和26)年、「桜木町事故」といわれる列車火災事故が起こり、死者106名を出す大惨事となってしまいます。この際、バラック同然のお粗末な電車が事故を大きくしたことが問題となり、国鉄ではロクサン型の改良工事を行いました。
 これが72系です。そして以後は、同一寸法の電車が年を追うごとに車体の改良を進めながらも「72系」を名乗る形で増備されたため、このグループは「新性能車」モハ90系(後の101系)が登場するまで通勤型の王者として君臨するのです。
 技術的には初めて本格的に20m4扉という規格を採用し、製造工程の簡易化から四角四面のスタイルになったことが特筆されます。
 その後の国鉄〜JRの通勤電車がずっとこの規格で設計されていること、私鉄でも20m4ドアという規格が多いことを考えると、その影響は計り知れないといっても過言ではないでしょう。

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