●白帯とジュラ電

 1945(昭和20)年、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争は終結しました。
 敗戦となった日本の都市ははまったくの廃墟と化し、人々は飢え、疲れ、心身共にどん底の状態に置かれたといいます。
 終戦の前年から製造が始まった戦時設計の通勤電車「ロクサン型」は、いち早く量産体制に入って復興の原動力として活躍を始めました。
 終戦翌年の1946年には終戦と共に進駐してきた軍や関係者の輸送をスムーズにするため進駐軍専用の車両が登場し、白い帯に黄色い●マークをつけて走り始めました。
 この種の車両は「白帯車」「イエローボール」などと呼ばれ、スシ詰めの列車を尻目にゆうゆうと列車に乗っている進駐軍をの姿を見た当時の人たちは、どれほど辛い気持ちであったか今の私たちには想像するすべもありません。
 白帯車の元になった車種は非常に多く、国電区間には半室が専用ブロックになったものも現れました。


「何にもなくなってしまったなぁ…」
「頑張ろうよ。それしかない」

 そんな会話が聞こえてきそうです。


 同じ年、航空機用のジュラルミンを電車に転用して製造された「ジュラ電」が登場しました。
 敗戦により軍事転用が可能な航空機製造が御法度となったため、材料を転用したものですが、当時のジュラルミンは「電車」という乗り物を造るのには具合が悪い材料だったようで、すぐにボロボロになってしまったそうです。「ロクサン型」の仲間として、京浜東北線用に6両だけ製造されました。
 しかし電車といえばほとんどが茶色だったこの時代、銀色に輝く車体はさぞかし斬新なものであったことでしょう。
また、航空機製造が出来なくなったことによって航空機の設計や開発、研究に携わっていた技術者も職を失ってしまいましたが、この時国鉄は大量にこの人たちはじめ陸海軍にいた技術者を受け入れました。その数は千人ともいわれます。
 この人たちは後に車両の軽量化、事故がおきたときの調査方法の見直し、新幹線の開発などに計り知れない役割を果たしています。


 模型ではどちらもTomixの73系を塗り替えてお手軽に済ませましたが、走らせると結構説得力があります。
 ジュラ電の帯は悩みましたが「日の丸のペンキを転用した」と誰かが言っていたのを思い出し、朱色に近い赤にすることにし、赤11号を起用しまし
た。
 この色は現在製造されていませんので、今やるとしたらグンゼの「シャインレッド」あたりがこれに近い色になります。


  続く  戻る