●どん底時代の新幹線…2
ー「若返り運休」はじまるー
前項では特異なものだけを挙げましたが、新幹線の事故や故障、災害による混乱は終わりがないかと思われるほど続きました。
この背景には、様々な要因が絡んでいます。
1・こういう状況になった最大の理由は、当初の予測をはるかに上回る利用客があり、システム全体に無理がかかった事にあります。
2・これにより、施設や車両の老朽化が予期できない早さで進みました。
列車本数は1時間に片道2本でスタートしたのが8本にも増え、全車指定席の定員乗車を前提に色々なものが設計されていたにも関わらず、定員無視の自由席の導入も行われています。
ここまでの状況は、技術者もまったく予想していなかった事でした。
3・この当時の段階では、高速運転に関する技術的なノウハウが、まだ決して充分ではない状態でした。
システム全体の「強度」の予測が狂った原因は、これも大きく関係しています。
新幹線開通まで、日本での実用的な高速運転は在来線の110km/hまでで、それが一気に210km/hとなった格好だったのです。
いくら充分な設計、試験を行って安全なものを作り、細心の注意を払って維持管理しても、長い間運行を続けて蓄積されたノウハウをもってしなければわからない部分は、どうしてもあったといえましょう。
安全管理や日常的な整備点検にも、当時はまだ改善の余地が非常に多い段階だったのです。
4・相次ぐストや順法闘争により現場が混乱し、整備、保守が充分に行われていない部分があったといわれることも、忘れてはなりません。
特に1975(昭和50)年5月には、車両検査の能率が落ちて一日5往復を計画運休するという措置が、とられているのです。
5・長い間にわたる労使紛争による現場の混乱は、運行に携わる人たちの心を不安定にしていたはずです。
また、1972(昭和47)年の岡山開業、1975(昭和50)年の博多開業で、ダイヤが過密化、複雑化したことも運行に携わる人の緊張を強めていると考えられます。
こういった中では、ゆとりのない状況がミスを誘発する場合もあります。
6・事故や災害の際の手際の悪さも、混乱に拍車をかけました。
1974(昭和49)年8月には、徳永運輸大臣が藤井国鉄総裁を呼び「新幹線の保安、検査の徹底をはかり、事故を未然に防げ」という旨の警告を出し、さらに新幹線の安全対策をたて報告せよという指示を出しました。
国鉄はこれを受け、10月15日には次のような報告を提出しています。
・開業時から使っている車両を新しいものに取り替える。
・線路の路盤を強化する。
・架線を重架線に取り替える。
・ATCを改良する。
・レールを50kgレールから60kg レールに交換する。
(レールは1mあたりの重さで強度が表されるといってよい。新幹線の50kgレールは在来線と規格が異なり、厳密には53.3kgレール)
国鉄は以上の工事は列車を運休してでも行うという事も言明しました。
「常に定時運行」を是としていた国鉄としては、異例ともいえる措置です。
また、政府はこの工事に対する財政上のバックアップを約束しました。
この事は、当時いかに新幹線が苦境に立たされていたかを示しているともいえるでしょう。
この時期に投入された車両からは破損防止のため窓が小型になりました。
0系はたびたび増強が行われて編成替えも繰り返し行われているため、編成中に大幅に年式の異なる車両が混在したり、2両ユニットの片方だけが廃車対象になったりと、置き換え作業は困難を極めました。
しかし、そうこうしている間にも事故は続きました。
1974(昭和49)年の9月には、品川の車両基地と本線の合流部分でATCが故障、翌日午後まで列車を全面運休して調査を行うという騒ぎになります。
10月21日には一日に4つもの事故が起こって終日大混乱。
11月には新大阪駅構内で散発的に、これから止まろうとしている列車に対して「210信号」が出る事件が起こり、大騒動になりました。
このため国鉄は翌年1月に予定していた「半日運休総点検」を12月11日に繰り上げて実施。さらに各種対策の実施を急ぎ、新幹線は「若返り運休」と称して半日運休を繰り返しながら、徐々に体質改善をはかっていくこととなります。
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