●どん底時代の新幹線…3
ー消えた10万人?ー
こうした中、新幹線は1975(昭和50)年3月、博多まで開業しました。
しかし、依然として事故やトラブルは続き、新幹線に「安心して」乗れるようになったのは前述した施策の効果が出てきた1980年代に入った頃からであったと思われます。
利用客の国鉄離れは進み、1980(昭和55)年10月のダイヤ改正では、始めて新幹線の走行キロ数を減らすという「減量ダイヤ」が実行に移されました。
また、この間1974(昭和49)年には新幹線開業10周年、1979(昭和54)年には15周年を迎えますが、10周年の時は記念行事は何もなく、15周年の時はクレーン車が新幹線の高架橋に衝突する事故があり記念式典が中止になるなど、開業当時の華やかさはどこへ…、というほど惨めな状態に陥っています。
しかしそうはいっても、新幹線の人気の「底力」もまた、大変なものでした。
新幹線は前述したように「若返り運休」を何度も行っていますが、この際「利用客の少なそうな日」を選んでも、半日で10万人もの利用客に影響が出る事が予想され、国鉄はその対策に頭を痛めました。
そこで国鉄では運休のPRを大々的に行って周知徹底をはかり、当日は在来線や国鉄高速バスを可能な限り増発して、混乱の防止に努めます。
在来線やバスによる代行輸送が行われました。
ところが、増発の列車やバスはガラガラで、飛行機その他の交通機関にも、午後の新幹線にも、何ら影響はなかったのです。
この10万人はどこにいってしまったのでしょうか。
この日の移動自体を、取りやめたのです。
つまりこの人たちは新幹線以外の交通機関には関心がなく、「新幹線の運休」イコール「この日の移動の取りやめ」につながるのでした。
また、ビジネスの世界でも「新幹線が運休だから」という理由で仕事の日程自体が変更された事も、意外とあったといわれます。
現在であればもっとシビアな結果になることも予想はされますが、もともと新幹線は
・速い
・時間が正確
・本数が多く自由席もあり、いつでも飛び乗れる
・基本的には街の中に発着するので便利
といった事で乗客を集めており、手続きが煩雑でほとんどの場合市街地から遠い場所に発着する飛行機、スピードが遅い在来線やバスなどは、新幹線の代わりになり得なかった、言い換えれば新幹線の乗客にとっては(よほどの用事がある人は別として)新幹線以外の手段は考えられないといえるのです。新幹線があったからこそ、移動の需要がそれだけ大量に発生したという見方も出来ましょう。
どん底の時代でも新幹線を支持する人はたくさんいたというより、「交通手段の選択は、案外流動的ではない」と考える方が、適切なのかもしれません。
とはいえこの時期、混乱の続く新幹線に愛想をつかして飛行機に乗り換え、その利用パターンに慣れてしまった人たちも、非常に多くありました。
この人たちにとっては逆に、飛行機以外の手段は考えられないことになります。
新幹線は「若返り運休」を繰り返し、故障が続発し始めてから実に7〜8年の時間を経て、ようやく蘇りました。
しかし飛行機に乗り慣れた人たちは新幹線に、二度と帰ってはこなかったのです。
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