●どん底時代の新幹線…1
ー崩壊した「安全神話」ー
脱線事故のあった33号ポイント。
大阪の車両基地と本線の合流部分です。
この時はもう少しで衝突、大惨事になるところでした。
この写真は交通博物館に展示してある総合司令所の表示盤で、当時実際に使われていたものです。
1970年代、新幹線では当初予想もしていなかったような事故や故障、災害による混乱などが続き、その安全性に疑問がもたれるようになりました。
これにストや順法闘争の影響も加わり、長い間にわたって「新幹線はアテにならない」状態が続いてしまいます。
「世界に誇るシンカンセン」の信頼性低下は、この年代に定着してしまった国鉄のイメージダウンの要素として、やはり特筆すべき状況と思われます。
開業当初、新幹線は事故やトラブルが続きましたが、その多くは初期的なものや高速運転に関するノウハウの不足によるものでした。
関係者の大変な努力によりこれらは克服され、1970(昭和45)年の万博の時は文字どおり大活躍、その安全性と輸送力の大きさを内外に示し「動くパビリオン(展示館)」とまでいわれます。
その「シンカンセン」に、1973(昭和48)年頃から急速に事故や故障が目立ち始めます。
前年には「運転阻害」の件数は99件だったのが、73年には171件に急増し、その後もどんどん増加を続けて77年には360件にまで膨れ上がりました。
ひどいときには新聞に載っただけで3日に1回以上はダイヤが混乱している、という月もあり、
「新幹線がまともに走ったらニュースになるのでは?」
などという冗談を言う人もあったほどです。
その内容は多岐にわたり、車両故障、架線や信号、線路周りのトラブル、雪や雨、台風などの自然災害、或いはそれらの複合的なものなどです。
運行管理や乗客への対応のまずさが混乱を大きくするケースも、多々ありました。
これらの中には原因がよく分からず解明に時間のかかるもの、新幹線の安全の中枢とも言えるATC(自動列車制御装置)の信用性を揺るがすものまであります。
また職員の人的エラーに起因するものも、この時期非常に目立ちました。
中には「何でこんな事を」というものもありますが、過密化、複雑化するダイヤ、当時混迷を極めていた労働問題などを考えると、背景には様々なものがあるといえるでしょう。
とはいえ、この時期これだけ多くの事故やトラブルが起きているにも関わらず乗客が死傷する事態に至らなかったことは、本当に不幸中の幸いでした。
そのいくつかをご紹介します。
・新幹線、本線上で脱線
1973(昭和48)年2月21日、大阪の鳥飼車両基地から新大阪駅に向かおうとしていた回送列車が「絶対停止」の信号を突破して、まだ開いていない本線上のポイントに突っ込みポイントを破損、さらに列車指令の指示で列車をバックさせたため、脱線しました。
運転士は信号に異常があったと証言し、「危険なときには必ず止まる」というATCの信頼性を根幹から覆す重大な事件になります。
国鉄では全力を上げて原因究明に乗り出し、現場で実際に同型の車両を使っての模擬実験も行われました。
その結果、
●オーバーランの直接の原因はレール表面に油が付着しており、非常ブレーキは作動していたにも関わらず、列車が滑走したこと。
この「油」は通常機械で塗布されるが、事故当時は機械の故障で手作業に切り替えていた。
この際、本来油が付着してはならない部分に油を付着させてしまったことが発端。
これが列車の車輪によって広げられ、レール表面に回ってしまった。
●信号の乱れは機器に故障は見られなかったため「絶対停止」を示す信号系統の瞬間的な故障(接触が悪かった等)か、運転士の判断ミスと考えられるが、決定的な判断は出来ない。
ただし、ATCの「絶対停止」信号の回路が1系統しかなかったことは問題であった。
との結論が出されます。
国鉄では信号系統の改良、強化等を行いましたが、関係者の受けた衝撃は大変なものでした。
また、当時現場には乗客を乗せた別の列車が200km/h近い速度で接近してきていました。
ギリギリのところで緊急停止して事なきを得ていますが、あと少しタイミングがずれていたら衝突していた可能性もあったのです。
しかも、この後もATCがらみの事故は続き、新幹線の安全性に対する不安が国民の間に広がっていくこととなりました。
さらにこの事件は組合闘争の材料にもなり、新幹線においても現場の混乱をきたすことになってしまいます。
・雪に弱い新幹線
開業当初から、新幹線は雪に悩まされ続けてきました。しかし列車本数が増え、ダイヤが複雑化するに従って混乱の度合いもひどくなり、大きな問題となりました。
雪のトラブルで非常にやっかいだったのは、床下機器や窓ガラスが破損するという現象です。
この現象の解明は容易ではなく、全容解明までにはかなりの時間を要しました。
雪の中を高速で走行すると、雪は舞い上げられて床下機器に付着、瞬時に凍りついてしまいます。そして気温の高い地域まで走ってくると凍りついた雪の固まりは落下、線路の石にぶつかって石を跳ね上げ、床下機器や窓ガラスを壊してしまうのです。時速200kmで走る新幹線ならではの現象で、石の破壊力は相当に強力なものでした。
盛り土に砂利を敷いた「バラスト軌道」は建設費は安かったのですが、維持管理に手間と費用がかかり、加えてこういう現象を起こすという欠点も露呈することになってしまいました。
具体的な対策としてはスプリンクラーで少量の水をまいて雪が舞い上がらないようにする方法が採られ、様々な雪対策と共に効果を上げるようになりました。
・折れたレール
新幹線のレールは継ぎ目のない「ロングレール」が使われていますが、実際のところロングレールは、運搬してきたレールを現場で溶接して継ぎ目のない状態に仕上げています。
そのため溶接部分が弱点になることは当初から予想され、数々の試験を行ったうえで強度の目算が立てられました。
それによると通過量が延べ5,4億トンを越えると金属疲労が発生し、危険になると計算されていました。
ところが、延べ通過量が2億トンにもならないうちに折れる、ひびが入るといったレールの損傷が目立ちはじめ、関係者を驚かせます。
調査したところ、問題箇所のほとんどは「テルミット溶接」という方法で溶接されていたことがわかり、国鉄では継ぎ目補強板を付けるなどの対策をとりました。
「テルミット溶接」は酸化鉄とアルミニウムの反応を利用した溶接で、機械が簡単で手間のかからない方法でしたが、新幹線のように負荷の大きな場所に使うには、不向きだったのです。
またレールそのものの強度も、当初の予想よりずっと低いレベルで見積もっておかなくてはならないことが、次第に明らかになってきました。
・20年もつはずが…
1974(昭和49)年6月13日、愛知県の枇杷島町(名古屋近郊)で、列車が通ってもいないのに突然架線が垂れ下がる、というトラブルが起こります。
調べたところ、架線の張り具合を調節する「テンション・バランサー」といわれる装置のワイヤーが磨耗し、切れたことが原因であるとわかりました。
関係者は事故の特異さはもとより、「20年はもつ」と設計していたものが10年も経たないうちに磨耗してしまったことに、大きな衝撃を受けました。
レールや架線だけでなく、当時新幹線というシステムのあちこちに疲労や老朽化が目立ちはじめており、耐用年数自体の設定を見直さなくてはならないケースが、続出してきています。
・無人で走った新幹線
1976(昭和51)年7月9日、東京行きのこだま210号で運転士が乗り遅れ、三島駅を無人のまま発車、車内にいた検査係が無人走行に気づき、たまたま便乗で乗っていた別の運転士を呼んで事なきを得ました。列車は発車してから10分前後を経過しています。
この事件の発端はドアの故障でした。
運転士は出発時間を確認、ATCが「70信号」を受信して出発OKを示していることを確認すると、マスコンハンドル(クルマで言う所の「アクセル」)をいれましたが、列車は発車しません。
運転士は、確認事項を一つ忘れているのに気がつきます。
ドアが全部閉まっていることを示すランプでした。
これが点灯していなければ、発車することは出来ません。後ろを見ると14号車のドアがまだ開いていることを示す表示灯が点いています。
この場合、本来なら検査係に点検を依頼することとなっており、運転士はやたらに運転台を離れてはいけない旨が定められています。
しかし検査係が車内を巡回していたため、運転士は一人で外に出て、あれこれいじり回し、最後にはドアを蹴飛ばしました。
するとドアは閉まり、列車は運転士をおいてきぼりにしたまま、動き出してしまいました。
実はこの時、運転士は重大なミスを犯しています。
運転士はブレーキを緩め、マスコンハンドルを入れっぱなしのまま運転台を離れたため、ドアが閉まりさえすれば発車できる状態だったのです。
さらに重大だったのは、国鉄がこの件に関してウソの発表をしたことでした。
それによれば、運転士はトイレに行っていて乗り遅れた、とされています。
しかし、内部告発によって事件の真相が明らかになると大きな問題となり、最終的には石沢新幹線総局長・常務理事が辞職する、という結果になってしまいました。
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