●碓氷峠の革命児、EF63型と「協調運転」用電車


 EF63型。Tomix製です。
 やたらに後付けパーツが多く途方に暮れていましたが、中古で「パーツ取付け済み・残あり」というモノが手に入ったので買ってきてしまいました。
 まったく幸運だったと思っています。


 日本は山が多く、鉄道にも急な勾配があちこちにあります。
 峠を越える機関車の力強い姿は人々を魅了し、多くの名場面を見せてくれました。
 峠に生き、峠で生涯を終えた機関車も数多くありましたが、その中でも碓氷峠の機関車は特異な存在であり有名です。碓氷峠、と聞いてピンとこない鉄道ファンは、まずいないでしょう。
 信越本線の横川ー軽井沢間にある碓氷峠… かつては国鉄〜JR最大の急勾配区間として知られた難所で、峠を越える機関車の勇壮な姿は見る人を圧倒しました。
 この区間は11.2kmで標高差は552.5mもあり、勾配の角度は最大1000分の66.7。1000m進むと66.7mの高低差があるというものです。
 ちなみに電車1両は約20mありますから、車両の前と後ろでも1.3m余り高さが違っていることになり、鉄道としては驚異的な勾配であることがわかります。
 この区間は1893(明治26)年に開通、車輪に付けた歯車とラックレール(ギヤを噛ませる凸凹のあるレール。線路中央に設置されている)を頼りに登っていく「アプト式」という方式がとられましたが、当初は蒸気機関車で煙がひどく、トンネル内で機関士が窒息して大事故に至るという事もありました。
 そこでこの区間は電化されることとなり、1912(明治45)年、わが国最初の電気機関車10000型(後のEC40型)が走り始めます。


 EC40型電機機関車。
 ワールド工芸の完成品です。


 その後機関車の改良は進み、特異な外観で知られるED42型がアプト式の線路を守るようになります。しかし改良は進んでもなお輸送力は一般の幹線よりずっと小さく、信越本線のネックになっていました。
 特殊運転で速度が遅い上に単線のため列車本数も限られ、特に急行列車はいつも超満員。しかも人の重さで車高が下がるとラックレールに床下機器が当たる恐れがあるため、乗車制限をしたというほどの有様です。貨物列車も本線の長さのままで峠を越えることは出来ないので、二列車に分割していました。
 しかも当時の碓氷越えには機関車4台が必要で、本線の機関車を切り放した後軽井沢側に1両、横川側に3両のED42を連結していたため、連結作業も煩雑でした。


 ED42型。マイクロエースの完成品です。
 製品は4両セット(うち動力2両)で販売されています。


 これを打開するため、1963(昭和38)年、強力な機関車が完成。この機関車がEF63型です。
 加えてこの区間の路線改良も同時に行われ、普通型の線路の新線に切り替えられて複線化も行われました。しかし碓氷峠を越えること自体に変わりはないため、勾配の大きさは変わっていません。
 EF63はただ単に強力なだけでなく、数々の特殊装備を持ち、安全に峠を行き来出来るようになっているのが特徴で、特にブレーキ関係の装備は厳重です。
 また、少し時代が下がって「協調運転」が出来る電車が開発されると、輸送力は飛躍的に上がりました。
 電気機関車と電車が連結して走ることは不可能ではありませんが、普通は「機関車が動力を切った電車を引っ張る」という運転スタイルが常識です。
 しかし碓氷峠でこの運転方式をとると(勾配を上るときは押すことになりますが)、電車は客車や貨車に比べて連結器などの強度が弱いこと等の事情もあって、峠越えは8両までに抑えられます。そのため「こだま型」を使っていた特急「あさま」などは8両編成で運行されていました。
 しかし、回路をつないで一緒にモーターが動く「協調運転」を行うようにすれば、もっと連結することが可能になります。
 そこで協調運転用電車として急行用の169系、特急用の489系、189系が登場し、12両編成での運行を開始。輸送力は一般の幹線とまったく変わらないレベルに達しました。


 協調運転で峠に挑む489系特急「白山」。
 489系はTomix485系の改造で、別売パーツを取付けると連結可能に出来ます。
 旧製品で色が気に入らなかったので、窓まわりの赤は全部塗り直しました。


 普通電車は8両以内で運行されており、協調運転用の形式はありません。
 貨物列車は2列車分割で峠を越えなくてはならないことに変わりはありませんでしたが、輸送力は大幅に上がりました。しかし年代が下がって貨物の合理化が進んでくると長野県側の貨物の発着駅も整理されてきたため、やがて貨物列車は中央、篠ノ井線経由にシフトしていくようになります。
 EF63は大活躍します。また、連結作業のある横川駅の「峠の釜めし」も「レジャーブーム」が到来すると多くの人に知られ、名物駅弁となりました。
 しかし1997(平成9)年、長野新幹線開業と共にこの区間は廃線となり、峠の機関車EF63も、惜しまれながら引退してしまいました。
 ちなみに長野新幹線は大きく迂回するルートを回って急勾配を避け、スピードで遠回りをカバーしています。

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