●混迷の時代へ…1
ー「ヨン・サン・トオ」改正の陰にー


 1965(昭和40)年、前年に開通した新幹線周辺だけでなく、国鉄全体に及ぶ白紙ダイヤ改正、いわゆる「40年改正」が行われます。
 当初東京ー新大阪間4時間10分運転でスタートした新幹線は、同区間を3時間10分で結ぶようになります。電化区間は延伸され、特急、急行などは整備され、近代化は進められていきます。
 しかし、国鉄の収支は前年の1964(昭和39)年から赤字に転落しており、この時期から後の事態の推移は、国鉄にとって重大なものであったといえましょう。


 新幹線の建設には3800億円という巨費を要しました。
 しかし政府からの直接の出資はなく、国鉄は自分の力を越えた「新幹線建設」という大事業を、自分の力でしなくてはなりませんでした。
 この資金には多くの外部からの借入金が含まれ、この返済や利子などがじわじわと押し寄せてきて、財政を圧迫し始めたのです。
 とはいえ、相当な識者でも「新幹線を作ったから国鉄は赤字になった」ということがありますが、これは当たっていません。
 確かに引き金になった、とはいえるのかもしれませんが、新幹線単独で考えれば事業としては大成功で、借金も早い時期に返済し終わっているのです。


 東京オリンピックと共に走り始めた新幹線。
 華やかな宴の後には、厳しい現実が待ちかまえていました。


 国鉄を大赤字に追い込んだ原因は単純ではありません。
 しかしその大きな原因のひとつに、というよりほとんど引き金のような状況として、過大な設備投資があったといって間違いはないでしょう。
 国鉄では1965(昭和40)年から「第3次長期計画」という、国鉄の輸送力を大幅にアップする計画が実施されています。
 この内容は主要幹線の電化、複線化、線路の改良、ATS(自動列車停止装置)の完備、貨物輸送の近代化、新線の建設などを盛り込んだもので、それにかかる費用は(当時の金額で)3兆円にも達するという計画でした(繰り返しますが、新幹線建設に要した費用は3800億円です)。
 この計画は従来とは違った形で実行に移されています。
 これまでの長期計画は国鉄独自のものであったのに対し、今回は総理府に設置された「国鉄基本問題懇談会」の意見書に端を発し、閣議で了承されるという、いわば「国の施策」として位置づけられたのです。
 当時国鉄では経済成長に伴って急激に客貨の輸送量が増え、輸送力が足りない状態だったのは、間違いなく事実でした。
 設備投資も追いつかず、貧弱な設備で人間の注意力に大きく頼って限界いっぱいの輸送をしていたことが災いして、参宮線事故、三河島事故等の大きな事故も起こり、問題になっていたのです。踏切事故も多くなり、しかも少し前とは比べものにならないほど大規模な事故が起きるようになってきています。


 「開かずの踏切」も各地で問題化しました。
 (ジオラマ制作・山田 敦 様)


 ところが計画のコンセプトはよかったのですが、それには国鉄の投資から大きな利益を得ようとする政・財界の動きも、複雑に絡んでいました。
 特に新線の建設については輸送力強化の上で重要な路線ばかりでなく、30線以上もの「政治路線」といわれるローカル線が含まれていました。当時はまだ鉄道を開通させたことが「票につながる」時代だったのです。
 後に赤字ローカル線問題が深刻化してくるとこの時期に建設された線がゾロゾロやり玉にあがり、結果的にその多くは廃止、または第3セクターに移管という経過をたどっています。
 「国の施策」と位置づけられた以上、国鉄は短期間で設備投資を行ったり、現在から考えればとほうもない距離の新線建設を進めるなど、本来自力では実現の難しい、そしてものによっては必要のない計画の実現にまで取り組まざるを得なくなってしまいました。
 新幹線建設に多大な資金を使ったため、すでに国鉄の財政は火の車でしたから、こんな状態の国鉄に3兆円もかかる計画を実行する力はありません。しかも、政府は「国の施策」としながらも資金援助を行うという姿勢はとりませんでした。このため国鉄は、更に多大な借入金を導入してこの計画にあたったのです。
 国鉄に資金がまったくないのにこの計画を断行したことは、後々まで尾を引くことになります。
この計画の効果の現れとして1968(昭和43)年10月、「ヨン・サン・トオ」といわれる特急の増発、スピードアップ、貨物列車の近代化などを盛り込んだ大規模なダイヤ改正が行われました。しかしその華やかさとは裏腹に、国鉄の財政は逼迫していきます。


 「ヨン・サン・トオ」改正で東北本線も全線電化が完了しました。

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