●「やれば出来る」
 「広島シティ電車」の登場



 1980年代に入り、国鉄の赤字はいよいよ天文学的な数字に膨れ上がりました。
 国鉄の累積赤字は10兆円を越え、長期債務(借金)は20兆円に迫るというすさまじさ!
 今後の国鉄のあり方について具体的な論議が始まったのも、事実上この頃といえます。
 ところでローカル線はともかくとして、1980年代までは比較的人口の多い地方都市圏の幹線でも、限られた本数の列車しかない「汽車型ダイヤ」のままでこれといった活性化策はとられず、閑散とした列車が行き来する状態が当たり前でした。
 この状況に渇を入れたのが、1982(昭和57)年に走り始めた「広島シティ電車」です。
 広島都市圏は東西に細長い形に展開しており、道路混雑も目立つ地域でした。
 細長い形の流動が多い地域であれば、渋滞のない鉄道のメリットを活かしやすいので、便利にすれば乗客も増えると考えられたのです。
 ちょうどこの地域の電車は老朽化していて取り替えが必要だったため、サービスアップを前面に押し出す意味もあって新型の電車が用意されました。
 これが115系3000番代です。車内設備は京阪神地区で私鉄との競争を繰り広げていた117系とほとんど同等という、地方向けとしては異例のデラックス車両です。


 颯爽とデビューした「広島シティ電車」。
 模型はマイクロエース製品です。


 これを機に列車1本あたりの両数を6両から4両に減らし、その代わり大幅な増発をするというダイヤが実行に移されました。
 国鉄の台所事情を反映して全てが新車になったわけではなく、中には動力車はよそからもってきた従来型で動力のない先頭車だけが新車、車体の色も揃っていなければ冷房も準備工事だけ…等という編成もあり百鬼夜行の状態でしたが、とにかく広島都市圏の山陽本線普通列車はきっちり15分おきに走るようになりました。
 こうして従来の不規則な間隔で列車が走り、時にはかなり長時間列車がないことも…といった状況からは、比べものにならないほどスマートで便利なダイヤが実現し、「国電型ダイヤ」「シティ電車は15分感覚」(「間隔」でないところがミソ)等の宣伝も効いて利用者は急増、国鉄関係者を驚かせます。

 「やれば出来る」…

 広島シティ電車は国鉄の「可能性」を、具体的な形で示す存在になりました。
 この方式は車両数がなくても増発が出来るという合理性から全国の注目を集めることになり、この後各地で

 ・両数を減らして本数を増やし、
 ・なるべく等間隔のダイヤを作り、
 ・親しみやすい愛称を付けた


「シティ電車」が計画されるきっかけになりました。
 またここまで徹底していなくても、連結両数の減車と本数の増加をワンセットにした「短編成・フリークェントサービス(「頻繁運転」というとわかりやすい)」の施策は、あちこちで行われていきます。
 乗務員については増員ではなく、勤務体系の見直しで工面されています。当時はまだ合理化途上の時期であり、「余剰人員」問題が報道されていたほどでしたから、このあたりの問題は当時はあまりなかったようです。
 「短編成・フリークェントサービス」によって発生した問題については、次項「ひょうきん族現る」でお話しします。

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