●ディーゼルカーの高性能化…1


 1960(昭和35)年、はじめてのディーゼル特急、キハ81系が「はつかり」としてデビュー、翌年には改良型のキハ82系が登場して全国にディーゼル特急が走るようになりました。
 「はつかり」運行開始当初の初期故障もすっかり克服され、キハ82系も増強されていきました。

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 キハ81(左)とキハ82(右)。
 日本のディーゼル特急の夜明けを拓いた形式です。


 が、技術者の中には

「本当にこれでよかったのだろうか」

と考える人が少なくありませんでした。
 それは、エンジン出力が小さすぎることに不安をもっていたからです。
 キハ81系、82系(以下ひとまとめにして「キハ80系」といいます)は規格型エンジンを横に寝かせたものを各車に2台装備し、180馬力×2で360馬力としていました。
 しかし、これは1955(昭和30)年に登場した準急「日光」のキハ55系と変わっていません。それどころかキハ80系では特急用として数々のサービス機器が装備されていること、先頭車のエンジン2個のうち1個は発電用に充てられていることなどから、重量あたりのパワーはかえって小さくなっているのです。
 果たしてこの性能で「特急」として運行していって大丈夫なのか、不安を感じる声が出るのは当然といえば当然でした。
 技術者の一部からは「はつかり」のディーゼル化が、いや「はつかり」という非電化区間を走る特急列車の運行が決まった当初から「もっと技術面の裏付けが出来てからの方がいいのではないか」という意見も出されています。
 実は国鉄でもディーゼル特急登場の少し前には、規格型エンジンから次のステップへの動きは始まっていました。
 そして1960(昭和35)年には、400馬力エンジンを積んだキハ60型が試作されています。
 ところが、これは従来のエンジンと構造が大幅に異なっていたこと、まだ規格型エンジンが普及しはじめたばかりという時期だったことなどにより、実際に扱う現場の人たちからの評判はよくありませんでした。そして新型エンジンは余り試験を行われることもないまま、早々に規格型エンジンに載せかえられてしまいます。
 当時、ディーゼルカーは蒸気機関車に比べて飛躍的なスピードアップと効率化、そしてそれ以上に、乗客に対するイメージアップをもたらしました。
 各基地への配置の要請はものすごく、増強も急ピッチで行われます。


 ディーゼルカーによる準急の登場により、支線区間にも速くて快適な優等列車が運転できるようになりました。

 各基地や職場では「全国一律の」従来型エンジンを使っているディーゼルカーの導入、増強を急ぎ、ノウハウをこなし、競うように近代化を進めていたのです。
 こうした「数の充足」「標準化された技術の修得」が急がれていた段階では、現場にゆとりがあったとは考えられません。
 この状況ではまだ、新たな技術開発を…と、時間をかけて試行錯誤を繰り返していくという段階では、確かになかったのかもしれないのです。
 一方、営業サイドからも
「いつまでも『はつかり』を蒸気機関車のままにしておいては困る。
 早く非電化区間にも『こだま』や『あさかぜ』のようにデラックスで近代的な特急車両を用意して欲しい」
という要望が、強く出されていました。
 このため国鉄では新しい技術の完成を待たずに、ディーゼル特急制作に踏み切ることとなります。
 ARC(第2回アジア鉄道首脳会議)も迫っており、
「この機会に華やかなディーゼル特急を制作し、東南アジア向け車両輸出のPRに使おう」
という算術が働いたことも、無視できません。
 そしてフタを開けてみると初期故障があったとはいえ、翌年には全国での運行にこぎ着けることが出来、営業側のもくろみ通りディーゼル特急は絶大なPR力を発揮しました。
 しかし、技術者の不安も的中しました。
 キハ80系の性能で同じディーゼルカーの「準急」や「急行」と明らかな速度差を付けるのは至難の業で、少し後年になってくると停車駅を極力絞り、単線区間で最優先のダイヤを組むなどして、ようやく面目を保つ…という状況が目立ち始めます。特に勾配の大きい線区ではその状況が顕著でした。
 また幹線の電化が伸展し、利用客の多い区間には電車特急、遠方の非電化区間に直通する列車にはディーゼル特急…と車種の違う「特急」が混在するようになると、電車に比べてアシの遅いディーゼル特急はやっかいな存在になってきました。
 一方、保守面でも「エンジンを2台装備する」ということはエンジンの数が倍に増え、それだけ維持管理にも手間がかかることになります。また、床下には多くの機器類がおかれ、機器配置は苦しくなってきます。これは整備点検のしにくい機器配置を強いられることも意味し、あまり好ましいことではありません。
 規格型エンジンは「大量生産、大量使用による保守の合理化」という面での功績は非常に大きいものがありました。日本中どこに行っても同系統のエンジンが使用されているため、部品の互換性もありノウハウも蓄積されていることは、日本のディーゼルカーの発展にどれだけ貢献したかわかりません。
 しかしその合理性や急速な広がりが、逆に技術の発展を妨げる形になってしまったことは、全くの皮肉といえましょう。

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