●L特急の功罪…1
ー「特急時代」の光と陰ー
「次々発車、数自慢」をうたい文句に、L特急は急成長していきました。
名門列車「つばめ」も、新幹線接続のL特急として活躍を続けていきます。
1972(昭和47)年のダイヤ改正では、特急列車は大きな変化を遂げました。
主要幹線の特急で「L特急」という制度が始まり、長距離輸送は確実に特急中心の体系に移行し始めたのです。
L特急の「L」の意味は明確に説明されていませんが、large(本数がたくさんあるから)、light(気軽に乗れるから)などという説が有力で、多分に語感のよさが先行した形になったようです。
L特急は従来の特急と何が違うかというと
・一定の区間にまとまった本数が設定されている。
・自由席がある。
・主要駅を決まったパターンの時刻に出発する(例えば上野駅を毎時00分発、など)ことでわかりやすいダイヤになっている。
の3点です。
既に1965(昭和40)年から一部の特急に自由席が導入されていましたが、この制度を充実し、便利にしたものといえます。
これはヨーロッパのインターシティー特急がお手本になっており、国鉄は「いつでも気軽に特急に乗れるようになり、大幅に便利になりました」と便利さをアピールしていました。
183系が登場し、485系が「電気釜」スタイルにモデルチェンジされ、489、189などの系列が続々と登場、各系列の増備車は常時造りっぱなしの勢い…というのもこの時期前後から数年の間のことで、国鉄型特急電車黄金時代の幕が切って落とされるのです。
しかし特急の増発は、同時に急行、長距離鈍行の削減も伴いました。
この傾向は年々強まり、現在は100km程度以上の旅をする場合、特急を利用しないと非常に不便な地域が多くなってしまっています。
だんだん「急行」や「準急」の影は薄くなっていきました。
「特急」とは「特別急行」の略であり、以前は限られた人が利用する列車でした。それが便利になって誰でも乗れるようになったことはよかったのですが、急行や長距離鈍行を削減した上での特急増発でしたから、特急以外の選択肢を奪われた乗客が特急に移行してきたことにより、特急にも輸送力や区間利用客への対応が求められるようになりました。
自由席の大幅設定はこれらの乗客の受け皿となったわけですが、結果としては特急列車に多くの立ち客が発生することになりました。これにより定員乗車を前提としていた特急の快適性はすっかり損なわれ、「国鉄は(特急に乗らざるを得なくなって)これまでよりはるかに高い料金を払っても、立たされる」という評判も定着して、国鉄全体の大幅なイメージダウンになってしまいました。
「特急が乱発され、サービスが悪くなった」という意見が聞かれるようになったのは、この頃からです。
また、特急が増えて急行が削減されると、従来の急行停車駅は不便になるため、「特急停車」を地元の悲願とした陳情も相次ぎました。
結果として特急の停車駅は大幅に増えてしまい、中には急行並かそれ以下になってしまった特急もありました。
またあまり速度を落とすわけにはいかないと「特急●●の何号はあそこに停車してここは通過、何号はあそこは通過してここに停車」というダイヤを組んだケースもあり、こういう施策をとった地域では同じ「L特急」の「●●号」でも列車によって停車駅が異なり、非常にわかりにくいダイヤになってしまいました。
例えば同じ特急「ひばり」(上野ー仙台。東北本線経由)でも黒磯や大宮には停まらないものがあり、自由席特急券を買って飛び乗ったはいいけれど…なんてこともあり得ます。
上野駅00分の「カッキリ発車」で「時刻表なしで乗れる」便利さをアピールしていても、駅によっては必ずしも宣伝通りにはいかないというわけです。
また、1時間間隔の「ひばり」の間にもっと遠くの盛岡まで行く「やまびこ」が入り、別に次の「ひばり」まで待つ必要もない…等という例もあり、結局「時刻表なしで…」という表現は少々オーバーだったように思えます。