●L特急の功罪…2
ー「50%値上げ」と忘れられた事実ー


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 そこのけそこのけ特急が通る…

 これだけおかしなことになった理由は、当時国鉄は赤字に苦しんでおり、収入を上げるためにと運賃値上げとともに、特急列車の増発と乗客の特急への誘導(乗客側からすれば料金値上げに等しい)を行ったことにあります。
 好景気とレジャーブームの中で乗客の「特急指向」が強まったという事は確かですし、多くの自治体が「特急が停まる」事を要請したというのも確かですが、そういった動きに国鉄が「渡りに舟」とばかりに乗り、どんどん突っ走っていった…とみて、大体間違いはないでしょう。
 当時は「国鉄の赤字は値上げで改善できる」という目算が立てられていました。しかしこれがいかに見当違いだったかは、その後の歴史が示しているとおりです。
 悪いことに1973(昭和48)年暮れの第一次オイルショック以来、日本は高度成長から一転して長い深刻な不況の時代に入っています。そんな中、輸送量そのものが減少した状況下でのこうした施策は、国鉄に手痛い打撃を与えました。
 特に1976(昭和51)年の「国鉄運賃・料金50%値上げ」の影響は深刻で、国鉄運賃は私鉄、飛行機といった他の交通機関より高いものになってしまいました。
 更に当時ストや順法闘争が繰り返され、特に50%値上げの前年に行われた「スト権スト」では8日間も国鉄が全面ストップ、国民の大変な怒りを買っています。
 国鉄利用客にとってはまさに踏んだりけったり。それでも収支改善にはほど遠いと値上げが繰り返されたため、「国鉄離れ」が進んでしまったのです。


 ただここで忘れてはならないことは、値上げが繰り返された理由は単純ではないということです。
 現在の状況からはとても信じられませんが、国鉄の運賃というのは物価全体の水準や他の交通機関の運賃と比べて、非常に安い時代が長く続いていました。
 運賃の改定には国会の承認が必要であり(1977年に一部規制緩和)、これが政争の材料になって値上げが「先送り」になったという状況も多々ありました。運賃値上げを喜ぶ人はいませんから、国民も特に問題視してはいなかったのです。
 戦後しばらくしてから第一次オイルショックまで、波はあったものの日本は右肩上がりの経済成長を続けています。
 経済成長に伴って物価は高騰、人件費も高騰、しかし運賃値上げは簡単に行かないという状況が続けば国鉄の経営に無理も出てこようというもので、いよいよ収拾がつかなくなってくると、今度は値上げに転じたというわけです。
 特に1976(昭和51)年の「国鉄運賃・料金50%値上げ」はオイルショック後の狂乱物価の中で、本来なら必要なレベルの値上げも出来ずに推移していたものを、一挙に是正しようと断行されたものです。
 当時、値上げ前の状態は東京都心部の最低運賃で比較すると国鉄30円、大多数の民鉄40円、地下鉄は60円で、その前にある程度値上げが続いた状態でもなお、国鉄運賃は他に比べ安かったのです。
 しかし、いくら何でも50%値上げは無茶でした。
 国鉄の輸送量は減らないという前提に基づく机上の計算では、これで収支は改善に向かうはずでしたが、運賃は50%、特急料金などは前年にも値上げされていて2年で倍以上にもハネ上がっており、寝台車やグリーン車を利用すると、飛行機より高い区間も出来てしまう始末。このため実際には大幅な利用客の減少、他の交通機関への転移を招いてしまいました。
 更に特急料金による収入アップを期待してちょっとした長距離の客をも特急へ誘導する施策は、自由席で座れない人が出たことと相まって、割高感を助長させたのです。
 現在のJRも、特別に利用客が多かったり他の交通機関との競争が激しいところは別として、少し地方に行くと「特急中心」の列車体系になっていますが、これはこの当時形成されたスタイルといって、概ね間違いはないと考えます。
 もちろん国鉄が破綻に至るほどの状態になった理由はこんなに単純ではありません。が、度重なる値上げや「必要以上の特急大増発」を招いた一因に過去の「先送り」のツケもあったということは意外と知られていない、というより忘れ去られてしまっているようです。
 また、中には地方で短〜中距離の輸送を担っている地方私鉄や路線バスの運賃が異様に高いという事実を照らし合わせて「当時の国鉄運賃は都市部も地方も完全に全国一律であり、どこかで帳尻を合わせないと具合が悪かったのでは?」と推察する意見もあります。
 いずれにせよ「国鉄の無策」だけが原因で危機的状況に陥ったのではないということは、押さえておく必要がありそうです。

 続く  戻る