●正念場を迎えた赤字ローカル線問題
  ー「乗って残そうローカル線」ー




 以前、国鉄の話になると必ず話題にのぼった「赤字ローカル線問題」は、分割民営化前後に大幅な路線の廃止、又は第3セクター転換という結末を迎え、一応の解決をみたといって差し支えはないと思います。
 「赤字ローカル線問題」が具体的な方向に動き出したのは1981(昭和56)年、国鉄再建法が施行された時点でした。
 同法施行令の中には輸送量の少ない国鉄のローカル線(特定地方交通線)を廃止し、ほかの事業体やバスに転換する事、その基準には具体的な数的基準が示され、基本的に例外を認めない事が盛り込まれたのです。
 この「数的基準」がいわゆる「輸送密度」です。具体的には第1次、第2次廃止対象線区は1日1kmあたり2000人、第3次では同じく4000人という数字が示され、それに満たない路線は一律に廃止しようという、相当思い切ったものでした。
 現実には数字の他に付則事項やいくつかの例外が認められたりしており、この「ものさし」が妥当なものであったかという点も議論のあるところです。しかし、一律の方法で国鉄全線を見直すということは、これまでにはなかったことでした。
 この結果をもとに廃止する路線、残す路線が機械的に振り分けられ、具体的な作業に入っていくことになります。
 予想された通り、ローカル線沿線の住民や自治体の反発は極めて強いものでした。
 いかにローカル線といえどもラッシュ時には多くの利用客(多くは通学の高校生)が集中するケースは少なくないこと、並行する道路の状態が悪くバス転換にするとスムーズな運行が難しい地域も多いこと、そして「鉄道がなくなってしまったら正真正銘のへき地になってしまう」不安などによるものです。

(以下、この頁、自宅にて撮影)
 普段は閑散としていても、ラッシュ時は満員というケースも多くありました。
 写真は都市近郊の非電化路線で通勤輸送にあたっていたキハ35系です。
 都市圏の電化の拡大と共に地方に追われていきましたが、地方でもラッシュ時には威力を発揮する存在でした。

 1980年代初頭といえば「俺たちネクラ族」という本や 吉 幾三の「俺ぁ東京さぁいくだ」などがヒットし、(発信した当事者はそういう意図はもっていないとしても)地方蔑視の空気が強まっていた時代でした。沿線関係者の中には感情を逆撫でされたように感じた人も、少なくはなかったはずです。
 またそういった問題の他、廃止対象路線の中には

●完成まであとわずかのところで工事が中断、放置されたままで本来の機能を果たしていない路線(完成すれば需要が見込めそうな路線)。
●沿線人口が多い地域なのに、列車本数が少ないままになっている路線。
●道路輸送に切り替えられない貨物輸送がある路線(危険物、大型貨物、「主要幹線ほど大量ではないがトラックでは運びきれない」量の貨物など)。
●特急の「近道」として使われているなど、特殊な役割をもつ路線。

など常識的に考えて廃止が適切でない路線もあり、一律の基準による振り分けの矛盾点も明らかになってきます。
 さらに、路線の単位はあくまでも「線名」で考えられており、部分的に存続させるという事は認めない方針が貫かれました。


 ローカル線の中にはまとまった貨物輸送を担っている路線もあり、これをどうするのかは難しい問題とされていました。

 そのため途中の駅までは輸送人数が多いとか、地元で定着している列車の運行形態が無視された形になる等の不合理を指摘されるケースも出てきています。
 こうした中、ローカル線沿線の人々の多くは反発を強め、自治体をあげて「乗って残そう●●線」などの運動を展開、住民に補助を出して利用を促進したりして、必死に線路を守る動きが出てきました。「輸送密度」がボーダーラインぎりぎりの路線では、特に活発だったといわれます。
 こうして一時はどうなるのかと思われたのですが、やがて流れは変わり始めました。
 転換には期限付きで「転換交付金」を始め様々な優遇措置が用意されていました。時の中曽根首相の大号令もあって、国鉄の分割民営化は避けられないという空気が強まってくると
「民営になったら赤字路線は更に厳しくなるだろう。無理をして国鉄で存続させると、後になって優遇措置もなく廃線ということになりかねない」
という見通しも出てくるようになりました。そして次第に「廃止絶対反対」の声は鳴りをひそめ、現実的な方向を模索するようになっていったのです。
 こうした中で「地元負担で鉄道を残すことはとうてい無理だ」と、早々にバス転換へ動き出したところも少なくありません。
 転換にあたっての優遇措置も、バス転換と第3セクター等による鉄道存続(詳細は次項)を比べるとバス転換の方が有利になる仕組みといえ、これが論議の行方を決めたケースも数多くありました。
 また、従来は政治家がローカル線建設を促進し、守っていくという構図が普通でしたが、クルマ社会の到来で鉄道が票に結びつかなくなったことも「ローカル線死守」の動きを変えていく要因になったといえるでしょう。
 上に挙げた「廃止が適切でない路線」についても転換は断行され(国鉄でなくても「線路は必要」ということから、第3セクター転換で線路を残したところが大半でしたが)、あきらめに似た空気も広がっていきました。


 さようなら、ローカル線…


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