●「鉄道100年」とSLブーム


 1972(昭和47)年、日本の鉄道は開業100周年を迎えました。
 これを記念して、近代化に追われつつあった蒸気機関車を「動かせる」状態でいつまでも残し、後世に伝えようということになり、京都に「梅小路蒸気機関車館」が開設されました。
 ここには16形式17両(D51型は1号機と200号機の2両)が保存されています。
 現在、実際に動ける「動態保存」の機関車は限られていますが、この時の取り組みがなかったら見られなくなっていたであろう機関車もあり、後になって蒸気機関車が復活したときにここが大きな役割を果たしていることを考えると、開設のタイミングは非常によかったといえます。
 しかし、こういった「文化財」として扱われるものは別として、蒸気機関車=SLの引退は時間の問題になってきました。


 ダイナミックな機関車の姿、遠くまで響く汽笛の音は希望のシンボルでした。この機関車は「デゴイチ登場」にも出てきたC57型で、密閉キャブ仕様に改造しています。

 SLも現実的には、効率が悪く人手を喰う、時代遅れの機械です。
 国鉄が総力をあげて進めていた動力近代化は、ディーゼル機関車の運行が軌道に乗ったことにより完全な形で進められるようになり、この頃にはSL廃止はもはや秒読み段階に入っていました。
「SLがなくなる」…。
 これは鉄道ファンだけでなく広い意味で「汽車」に慣れ親しんだ人たちにとって、程度の差はあれひとつの事件といえました。
 そしてマスコミが「郷愁」のイメージや「さらば陸の王者」的な形で大きく取り上げたこともあって、「SLブーム」が起こります。


 SLブーム初期に人気の的となった急行「ニセコ」(函館ー札幌)。
 日本一大型の蒸気機関車C62型が重連で峠を越える姿はファンの血を沸かせました。
 1971(昭和46)年、ディーゼル機関車に置き換えられ、C62は惜しまれながら引退してしまいました。
 模型はマイクロエース製品です。


 経済成長を続け進め進めの「時代」に、そろそろ日本国民がくたびれはじめていたのかもしれません。1973(昭和48)年暮れのオイルショックによって高度成長時代が終わると「のんびり、ゆっくり」が今でいうトレンドになってきています。
 しかしSLブームは「SL全廃」の日が近づくにつれ過熱し、一部心ない鉄道ファンの行動が、ニュースとして取り上げられるようになりました。
 喧噪と混乱の中、ひとつ、またひとつと蒸気機関車は引退していき、ついに1975(昭和50)年12月、室蘭本線でC57-135号機が最後の旅客列車を牽引、翌年初めには入れ替え作業も完全にディーゼル化されて、国鉄から蒸気機関車は全廃されることとなります。
 ところが蒸気機関車が引退しても、SLブームは簡単に終わりませんでした。
 静岡県を走る大井川鉄道で、C11型の保存運転が始まったのです。
 大井川鉄道の取り組みは極めて積極的、継続的であり、保存運転が始まって30年近くを経た現在、5両の蒸気機関車が活躍しています。


 C11型。模型はマイクロエース製品です。
 大井川鉄道では当時の客車も大切に使われており、「本物の汽車」に乗ることが出来ます。


 当時、その他にも小さなものが観光用に運転されて人気者になってはいましたが、国鉄による「SL復活」の要望は強いものがありました。
 「SL全廃」後の1976(昭和51)年9月、京都ー大阪間の鉄道開通100年を記念し、梅小路蒸気機関車館に保存されていたC57-1号機を本線に出して特別にSL列車「京阪100年号」の運転が行われます。
 この際には、12万人もの人たちが沿線に押し寄せて大混乱となり、撮影していた少年がはねられ死亡する事故もおきました。
 こうしたこともあって、梅小路蒸気機関車館に動態保存されていた蒸気機関車を継続的に運行することが決まります。
 運行路線には山口線が選ばれました。
 沿線に観光地もあり、比較的蒸気機関車を動かすための設備が残っていて、地元の協力も得られるところ…と、路線を絞り込んでいった結果といわれます。


 山口線に復活したC57型の1号機。
 KATO製品に小加工を施しました。


 こうして1979(昭和54)年、山口線にC57-1号機などが復活、現在まで運転を続けています。
 山口線に限らず、SL保存運転には多くの問題を乗り越える必要があり、関係者の大変な努力によって運行が支えられていることを、忘れてはならないでしょう。
 それにしても国鉄がこの時期に「SL復活」を決断したことはギリギリのタイミングだったといえ、現在から考えると非常に幸運なことでした。
 なぜならば「蒸気機関車に関する技術はもう不要になる」として、維持管理の技術や部品の製造法などの文書は処理され、整備や修理の経験者も少しずつ高齢化に向かっていたからです。
 梅小路蒸気機関車館も国鉄の赤字が深刻化していく中、だんだん潤沢に予算が付けられなくなり、「技術の保存」もままならなくなって動くことの出来ない機関車が増えてきていました。
 蒸気機関車を取り扱っていく技術には経験伝承的な部分も多く、ここで手を打っていなければ、それが途絶えていたかもしれなかったのです。
 事実山口線の保存運転が開始された後も、もしもう少し時期が後だったら対処できないところだった…、といわれるトラブルが多く起こっており、その都度こうした状況を切り抜け「技術を残す」取り組みをしたことが、現在もなお蒸気機関車の運行を可能にしているといってよいでしょう。
 この後、JR発足後にはSLの復活が(私鉄なども含め)相次ぎ、休日の行楽用に、イベント用にと活躍するようになります。


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