●混迷の時代へ…2
ーがんじがらめの国鉄ー



 国鉄ではこの年1968(昭和43)年、国鉄の建て直しを掲げて5万人の職員削減を含む合理化案を発表しました。当時の国鉄職員数は約43万人でしたから、これは大変な数でした。
これに反発した労働組合がストをはじめとする手段を用いて闘争を強めたことが、以後長い間にわたるドロ沼の労使紛争の発端となります。
 ドロ沼の労使紛争により、国鉄は建て直しどころか混迷の道を歩むことになってしまいました。
 しかも、少し前までの「輸送力が足りない」状態はわずかの間に一変し、クルマ社会の到来や飛行機の発達などによる「輸送シェアの低下」という状況が起き始めます。しかし国鉄はこうした状況の対応に、完全に乗り遅れました。


便利な自動車が普及し、道路も拡張され、日本にも「クルマ社会」が訪れました。
 (ジオラマ制作 山田 敦 様)


 ただ、これは国鉄の経営センスだけの問題ではなかったことは、案外知られていないようです。
 国鉄の経営に関わる最終決定権は国が握っており、当時は運賃の決定にも国会の承認が必要でしたし、再建計画はじめ何か具体的な提案ひとつにも有形無形の政治的な問題が関わってくるという状況で、国鉄独自で采配できることは、驚くほど少なかったのです。
 特に前項で問題になった「第3次長期計画」は「国の施策」と位置づけられるものであり、投資の抑制をするとか、本来鉄道輸送を強化すべき部分へ投資を集中するといった方針転換をすることは、極めて難しかったと推察されます。
 「第3次長期計画」からは脱線しますし、このサイトでは深くは取り上げませんが、現在進められている整備新幹線計画ももともとは、時の通産大臣だった田中角栄が自民党総裁選の政権構想として発表した「日本列島改造論」に端を発しており、当初は日本全国に5000kmもの新幹線を走らせるという、とほうもない計画でした。
 そしてこの整備新幹線計画にも、国鉄は多大な資金を投じています。実際のところ本当に輸送力が逼迫していた山陽、東北(盛岡以南)、上越等はともかく、それ以外の新幹線計画は必要性を疑問とする意見も相当あるのですが、そういった事項の判断にも多分に政治が絡んでいました。
 こうしたもろもろの事情もあって労使紛争、シェアの低下等の対策は後手に回った上に適切な方法を講じることが出来ず、事態は悪化していきます。
 また戦後、国鉄は鉄道輸送復興の必要性、そして引揚者などの雇用対策もあって、多くの職員を採用しました。
 大幅な人員整理を行ったこともありましたがこの時期に採用された職員の数はやはり多く、また蒸気機関車が主力だった時代の国鉄には、確かにそれだけの人手も必要だったのです。この人たちが退職する時期を迎えると退職金や年金の問題も深刻化してきました。
 こういったことが積み重なって国鉄の赤字は雪だるま式に増大しはじめ、建て直しはいよいよ困難になっていきます。

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