●マル生運動
労使紛争の話に戻ります。
この時期1960年代後半以降の労使紛争では、当局と組合の間だけでなく方針の異なる複数の労働組合の間でも鋭い対立が続いたため、事態は悪化の一途をたどりました。労使紛争は複雑な経緯を経て、概ね10年近くにも及ぶこととなるのです。
この推移を振り返ってみると「マル生運動」(生産性向上運動)の失敗は、極めて重大な事件だったといえましょう。
43万人の職員のうち5万人もの削減を含む合理化案が労使紛争の発端になったことは前項にも書きましたが、この翌年の1969(昭和44)年、時の磯崎国鉄総裁は職員の意識改革、能力の向上により生産性を上げ、赤字に転落した国鉄の再生を図ろうと活動を始めました。
彼は「まず現場ありき」と自ら全国に出かけ、数多くの管理者や職員と顔を合わせ、この運動の必要性を説いて回ったのです。
急行「安芸」(東京ー広島)の機関車交代シーン…というイメージです。
C62はKATO製で、最高スピード記録をもつ17号機に仕立ててみました。
「電気機関車から蒸気機関車に変わります。誠に恐れ入りますが、窓をお閉め下さい…」
そんなアナウンスが聞こえそうです。
動力近代化が進んでいく時代の一場面です。
その「動力近代化」も合理化や生産性向上という側面を強くもっています。
蒸気機関車乗務員を電気やディーゼルに乗せるための「転換教育」も行われていましたが、近代化によって職員数は大幅に削減されるため「合理化反対」の動きも大きく、混乱が続いていました。
写真は電化直前の東北本線のイメージ。
蒸気機関車に先導される格好で電気機関車の乗務員訓練が行われ、向こうからは電化までの間の「花形」だったディーゼル機関車が、急行列車を牽いて到着しました。
蒸機、電機、ディーゼル機が入り乱れ、動力近代化が急ピッチで進められている様子です。
それはよかったのですが「意識改革」の真意は、内部に充分浸透していませんでした。
国鉄には複数の労働組合が存在し、当局への対決色が強い組合もあれば、労使協調を掲げ、当局寄りの路線をとる組合もあります。どこに所属するかの選択は本来自由でなくてはならないのですが、一部の幹部は「マル生運動」の意味を歪曲し、当局寄りの路線をとり「マル生運動」に協力的だった組合への移動を、職員に強く迫るという動きに出たのです。この動きは各職場、現場に広がっていきました。
各職場、各職員にはそれぞれ人間関係や色々な背景がありますから、いきなり所属する組合を変えることは、非常に大変なことでした。
こうして現場の職員は様々なあつれきに悩むこととなり、混乱が広がっていきます。上司の勧めに従って組合を移動した人も数多くありましたが、一部では乱闘騒ぎがおきたり自殺者が出るといったケースも出始め、やがて大きな社会問題に発展してしまいました。
特定の組合への移動を上司が指示、説得したことについて各地の地裁へ提訴する動きも広がり、1971(昭和46)年、これは不当労働行為であるとする旨の見解が、札幌地裁から出されます。
磯崎総裁は陳謝し、不当労働行為に関わった幹部18人を処分、「マル生運動」は崩壊しました。
これにより当局に対し対決姿勢をとっていた組合は一挙に勢力を強め、圧倒的な力を持つようになります。逆にマル生運動に積極的だった現場管理者や、上司の勧めにしたがって組合を移動した職員は「はしごをはずされた」格好になったのです。
マル生運動の失敗で管理者の権威が失墜したこと、そしてマル生運動に反対する姿勢をとっていた組合の力が強くなりすぎたことにより、職員が管理者の指示に従わない場合でも、簡単には処分ができなくなってしまいました。
こうして「上」からの指揮系統は機能しなくなり、「労使協調」路線の組合に所属していた人たちは徹底的に追いつめられ、次第に現場は荒廃していきます。
賃金引き上げ、合理化反対、磯崎総裁の退陣などを掲げてストは再三にわたって繰り返されるようになり、そのスローガンにはやがて、国鉄の労働者の要求ばかりでなく政治色が強いものも掲げられるようになりました。この種の運動には特定の政治的勢力が深く関わっていたためです。
戦術もエスカレートしていきます。
特に「順法闘争」は、運行マニュアルを度が過ぎるほど忠実に守って列車を遅れさせるというもので、その影響はスト以上に深刻でした。
運行が止まっているわけではないので、乗客も国鉄を利用します。しかし列車は定時運行をしているか、全体の運行状態の流れに乗っているかといった状況を一切無視して、ただただひたすらにマニュアル遵守で運転されます。マニュアルの中で解釈を要するような文言は、全て列車の減速を伴う方向に解釈されました。
こうなると列車ダイヤは大混乱、目的地にいつ着くかまったくわからない状態になってしまう…、これが順法闘争です。
しかも職員が「違反」をしているわけではない以上、当局も処分ができません。そのため、この戦術はしばしば使われるようになりました。
しかしその実態は明らかに減速・減産闘争で、貨物列車で発送した生鮮食料品は腐り、ノロノロ運転の通勤電車は超満員いう有様。
利用者の怒りはつのり、ついに1973(昭和48)年3月、高崎線の上尾駅で暴動が起こりました。
遅れ放題に遅れた電車に積み残された乗客6千人が駅長や運転士に襲いかかり、投石をして電車や駅舎をこわし、駅を一時占拠する騒ぎとなったのです。
「上尾事件」です。
そして翌月になると、首都圏では同種の事件が立て続けに起こりました。しかしこれだけの大事件が起こっても、国鉄の混乱は収拾のつかない状態のまま推移していくのです。