●ついに「スト権スト」突入へ



 「マル生」の崩壊は「当局側への勝利」とされ、労働運動はエスカレートしていきます。当初は賃金闘争や磯崎総裁退陣などを掲げて展開されていた運動でしたが、政治色の強いスローガンも現れ、次第に混迷を深めていきました。
 こうした中、やがて運動の目標は「スト権奪還」に絞り込まれていきます。
 本来スト権は労働者の権利ですが、国鉄職員を始め官公労働者は社会的影響が大きいとされ、法律でストを禁止されています。
 しかし国鉄ではストが繰り返され、その度に「違法な行為を行った」として処分者が出ていました。そして「スト権は労働者の基本的な権利」として、多くの職員はスト権の付与を求めていたのです。これは当時、他の官公労働者にとっても悲願とされていました。
 時の三木首相は当初、一定の条件を付け、歯止めをかけた上での「条件付きスト権付与」の考えをもっていました。
 しかし椎名自民党副総裁、中曽根幹事長など与党である自民党メンバーの多くは、スト権付与に否定的でした。

「国鉄では政治色の強いストまで行われるようになっている。
 マル生運動崩壊後の経緯から考えても、ここでスト権付与を行えば『反体制』の動き全体が加速する可能性があり、
現行の政治体制を揺るがしかねない


と、考えていたからです。三木首相の考えが「条件付き付与」に傾いていることがわかると、反対派は当時既に国鉄問題を討議する機関として政府に設置されていた「専門委員懇談会」を舞台に、策を練り始めます。
 「スト権」は政権内の大きな問題になり、論議はなかなか進みませんでした。
 こうした中、ズタズタの状態で任期を終えた磯崎国鉄総裁の後任となっていた藤井総裁は「ストを禁止するより『条件付き付与』の方が現実的なのではないか」という発言をしました。
 なかなか進まないスト権論議に関係者が業を煮やしていたところでの「藤井発言」は追い風となり、ついに1975(昭和50)年11月末、史上最大のストライキが行われることとなります。
 国鉄をはじめ、郵政、電電などの官公労働者86万人が「スト権奪還」を求めて立ち上がり、いわゆる「スト権スト」に突入、政府に決断を迫ったのです。
 政府には衝撃が走りました。
 当時、第1次オイルショック以来の不況は深刻さを増す一方で、こういった中での大型スト、とりわけ輸送を預かる国鉄の大々的なスト突入は、不況の師走を控えた国民を直撃しました。
 生鮮食料品や灯油などの物価は上がり、特に都市部の私鉄や地下鉄では多くのけが人を出すほどの殺人ラッシュとなり、通勤のアシは混乱を極めます。
 しかし世論は「早くストを解決して欲しい」という意見は多かったものの「スト権を付与して事態を収拾させるべき」という人は、わずかでした。

「『条件付き付与』というが、その『条件』がどこまで守られるというのか…」

 「条件」の内容についてはまだこれからという状態でしたが、「マル生」問題を始め長い間に及ぶ内紛を見ていた国民は、もう既に国鉄を信用していなかったのです。


 いつものいなか道も大渋滞。国鉄が止まり荷物も人も道路にシフトしたためです。
 学校はストで休みのはずですが、制服を着た女の子が歩いていますね。
 校則がやかましいのでしょうか…?ということで。

  ジオラマ制作 山田 敦 様


 話は少し前後しますが、スト突入が近づいてくると企業などは事前に様々な対策をとり、ストに備えます。
 中には貸し布団を集め、弁当を手配して「泊まり込み体制」をとる会社もありました。また通勤の人たちも予め迂回路を調べ、家を早く出て混乱に備える人が大部分でしたが、中には電車の止まった線路を歩くという手段をとった人もいます。
 一方、政府も「生活物資確保本部」を設け、トラック業者を総動員して物流を確保、「物流を止めてスト権奪還を実現する」という国鉄のスト戦術に、厳然たる姿勢を示しました。
 そしてある地域では、駅前商店街の人などによる「ストやめろデモ」が行われニュースになっています。
 これに対し、スト戦術も強化されました。
 当初、「最初は全面ストを行って政府に力を誇示し、途中でいったん戦術を緩めて『再度のスト強化』を掲げつつ譲歩を迫り…」ということでスト権は奪還できるというシナリオが描かれていたのですが、国民世論は味方に付かず、政府が態度を硬化させ、事は筋書き通りには運ばないという見通しが出てくると、全面ストに転じたのです。
 スト突入当時、労働組合関係者側には

「ストを続ければ国民生活は混乱し、政府も事態打開のためにスト権付与に動くはず」

と考える人も多くありましたが、政府内部では

「今回のストは国民を人質にしたハイジャックのようなものだ。
 ハイジャック犯に国家が屈してはならない」


という強硬意見が、かえって強くなりました。
 また確かに国民生活の混乱は大きかったのですが、何とか物流も人の移動も代替交通機関でまかなえることがハッキリしてきたため、国民もギブアップしなかったのです。
 一方、「専門委員懇談会」内部では、スト権問題ではなく

「大赤字の国鉄が企業として成り立つのか。将来にわたって現在の経営形態でいいのか」

という議論が始まっています。
 国民は怒りを胸に、ストに耐えました。
 こうして「スト権スト」は完全に膠着状態に陥り、国鉄は実に8日間も全面ストップする異常事態となります。
 そしてついに、三木首相は決断を下しました。

「スト権付与は行わない」と。

 三木首相は当初「条件付き付与」に傾いていましたが、自民党内部の反対は極めて大きく、結局は追いつめられた格好になったのです。更に世論も、決してスト権付与を支持しませんでした。
 首相の会見が発表されるとスト中止の指令が出され、192時間ぶりに国鉄は動き出しました。
 「スト権スト」は史上空前の損害と、国鉄への怒り、不信感が残るだけの結果に終わりました。
 そしてこの時「専門委員懇談会」が出した「三公社五現業のあるべき性格と労働基本権問題について(意見書)」という書類には

「国鉄の様々な問題は労使問題の見地から論ずるだけでは真の解決にはならない。
 国鉄は経営形態の見直し、分割による経営単位の縮小についても検討されるべき」

という旨が記されてあり、これが結局、労使双方が思ってもいなかった「国鉄の分割民営化」という結末への道筋をつける事となったのです。


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