●いい日旅立ち



 1978(昭和53)年11月から、国鉄では「いい日旅立ち」という「国鉄に乗ってもらう」ためのキャンペーンが始まりました。
 この種のキャンペーンは1970(昭和45)年の「ディスカバー・ジャパン」というのがありましたが、これは当時高まってきた海外旅行熱に対抗する形で「美しい日本再発見」という国内旅行全体を売り込むといったニュアンスが強く、アシとしての国鉄はそれほど前面に出てきたものではありませんでした。国内旅行が増えれば国鉄の利用も多くなるという考えだったといわれます。
 この後に「一枚のキップから」というキャンペーンが続きますが、相次ぐ運賃値上げで国鉄離れが進む中、盛り上がりに欠けたものとなりました。
 「旅」のイメージとして広く定着していた蒸気機関車が営業線からなくなってしまったことも、見栄えの点では精彩を欠いたといえましょう。
 さて、実をいうと「いい日旅立ち」はこれらとは質的に異なっていました。
 表向きは落ちついたメロディーで旅情をかきたてるような宣伝を流していましたが、国鉄内部的には「SSオペレーション」という施策の一環とされ、「国鉄に乗ってもらおう」という増収作戦と一体になっていたのです。「SSオペレーション」のSSとは、セールス&サービスの意です。
 それまでと違い、国鉄の広告に観光地だけでなくそこへの「アシ」となる列車が顔を出すようになったのは、この頃からです。
 長い間混乱が続き、ストの続発、サービスダウン、度重なる運賃値上げですっかり利用客から見放された国鉄が、再起をかけて立ち上がったのです。
 とはいえ、一度地に墜ちた国鉄の名誉挽回は容易ではありませんでした。
 この頃はまだ労使紛争の後遺症で現場は荒廃したままであり、SSオペレーション、接客サービス向上…といくら唱えても、まず肝心の現場への浸透に非常に時間がかかりました。当時、「接客態度の悪い国鉄職員」「親方日の丸の国鉄商売」などの投書が新聞や雑誌に載ることはまったくの日常茶飯事で、この時期に「国鉄は変わった」と感じた利用客は、まったくいなかったとみてよいでしょう。
 更に1980年代にはいると、国鉄内部の汚職、悪慣行、非能率な勤務状況、規律の乱れなどが毎日のように報道され、国鉄に対する世論は日に日に厳しくなっていきます。
 時代はちょうど「ブルトレブーム」のさなかであり、子供向け、家族向けの企画は功を奏したものもありましたし、山口百恵の「いい日旅立ち」のレコードもヒットしています。しかしそういったことは別として、国鉄は内側も外側もすっかりボロボロになってしまっていました。
 そして国鉄がサービス向上の取り組みをアピールする機会も、鉄道ファンや利用者がその取り組みに目を向けることも、当時はほとんどなかったのです。
 国鉄の台所も火の車で、車両、施設の増強は一部例外を除いては極力抑制されることになります。ローカル線では乗客の減少〜本数の減便〜更に不便に…という悪循環が止まらず、数多くの路線で廃線が取り沙汰されるようになっていきます。
 それどころか「いい日旅立ち」の表看板を背負っているはずの特急列車や寝台列車も、整備が行き届かずひどい状態で走っているものが数多くありました。長い間の労使紛争による現場の荒廃に、予算不足が追い打ちをかけたのが主たる原因といわれます。


 華やかな特急列車も整備状態のよくないものが増え、魅力に欠ける存在になってきました。

 そういったことが重なり、キャンペーン開始当初から数年はイメージアップも増収も、遅々として進みませんでした。
 国鉄内部に「とにかく乗ってもらおう」「やれば出来る」といった空気がみなぎり、「国鉄が変わり始めた」と誰もが実感できるほどの変化を見せたのは、分割・民営化近くになってからといって、大体差し支えはないと思われるのです。

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