●東北・上越新幹線開業…2
 ー新幹線公害訴訟と騒音問題への取り組みー


 東北・上越新幹線の話に戻ります。
 東北・上越以降の新幹線では、騒音の防止についても多くの技術と予算が投じられています。これは東海道新幹線で起こされた「新幹線公害訴訟」が大きく関係しています。
 「騒音」は東海道新幹線の運行開始当初から問題になっていました。
 当初は研究が不充分だったこと、建設費の問題の両方があり、対策らしい対策がとられていない場所が殆どだったのです。騒音は100ホンを越え、会話もままならないほどのレベルだったといいます。


 新幹線の運行本数は格段に増え、騒音問題も深刻化していきました。

 こうした中、1974(昭和49)年、名古屋市内の沿線住民が減速運転と慰謝料の支払いを求めて起こした「新幹線公害訴訟」は大きく報じられ、騒音公害の問題は広く知られることとなります。
 東北新幹線の建設が予定された大宮以南の区間では住宅が密集しており、住民は「新幹線反対」の立場をとったため調整は難航、ようやく騒音対策強化、減速運転と埼京線の建設で折り合いがついた格好になりました。
 このため都心部の工事は大幅に遅れ、先に建設の進んでいた大宮以北を暫定開業、3年後の1985年(昭和60)年になってやっと上野開業が実現するということになるのです。
 一方、名古屋の訴訟は最高裁にまで持ち込まれましたが、分割民営化を1年後に控えた1986(昭和61)年、防音工事、各種騒音対策によって騒音を75ホン以下にすること、国鉄側が和解金の支払いをすることなどで合意しました。
 減速運転は行われませんでしたが、以後車両、設備両面から徹底した対策が行われるようになります。
 後に新幹線車両にパンタカバーが設置されたり、700系やE4系のような特異な「顔」をもつ車両が登場したりしますが、これも騒音軽減のためです。
 既に駆動系の騒音低減はほぼ限界に達したため、先頭部やパンタグラフ回りの風切り音を減らすための工夫なのです。 


 分厚い防音壁が急ピッチで設置されていきました。


 従来型の0系車両にもパンタグラフを隠すような格好のカバーが付けられました。
 実際に聞いてみるとパンタグラフが架線をこする音は思いのほか大きく、新型の車両では更に対策が徹底されています。


 東北・上越新幹線では地価や建設費の高騰に加えて騒音対策、雪害対策にも多大な費用を要したため、建設費はばく大なものとなりました。
 その額は東北新幹線東京ー盛岡間は2兆8010億円、上越新幹線大宮ー新潟間は1兆2060億円。
 オイルショックによる狂乱物価、宮城沖地震による被害、トンネル出水事故等の悪条件も重なって、当初の見積をはるかに上回っています。
 特に東北新幹線に関しては当初8800億円という計画でスタートしたのが、実に3倍以上にも膨れ上がってしまいました。
 とりわけ都心部の東京ー大宮間に要した費用は大宮ー盛岡間の建設費に近いといわれ、いかに困難な状況だったかがうかがえます。
 これだけの支出は大赤字を抱える国鉄にとっては大変なことだったはずですが、ふたを開けてみると各種対策の効果は絶大で、「雪に弱い新幹線」の汚名は返上されました。
 一方、東海道新幹線も様々な改善が行われ、雪で遅れることはあっても「止まってしまう」ことは少なくなっていき、徐々に信頼を回復していきます。
 ちなみに、東海道新幹線建設の時予算不足に泣いた 島 秀雄は、上越新幹線のあまりの立派さに「まるで現代の聚楽第だ」と評したといわれます。

聚楽第(じゅらくだい)…豊臣秀吉が建設し、政務を行った邸宅。現在の京都市上京区にあたる。1587年9月に完成した。現在,聚楽第の遺構と伝えられている建物が何棟か存在するが、いずれも確かな証拠はない、といわれる。
 あらゆる部屋,広間、台所にまで金箔が貼られていたとされる。


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