家出

 中3のときの12月。
 父は茨城県の百里基地に単身赴任していたが、そこで「くも膜下出血」を起こし、東京の病院で手術を受けた。
 そして翌年の3月に無事退院。
 何の後遺症も出なかったが、激務の続く基地勤務から東京勤務へと替わり、俗にいう出世街道から外れた。
 当時、父は44歳。
 よって私は高校生活のスタートから再び父親と同居することになった。

 相模台中学の音楽部OBは2年前に相模台グリーンエコーという合唱団をつくり、我々の世代も殆ど入団した。
 活動は毎週土曜日の夜7時から9時まで練習し、市の合唱祭等に出場していた。(後に定期演奏会を開くようになる)
 高校になじめなかった私は毎週土曜日が非常に楽しみで欠かさず参加した。
 なにしろ毎週中学の同窓会を開いているようなものである。
 練習時間は9時迄だったが、その後も皆と喋っているのが楽しく、ついつい帰りが遅くなった。
 ある日、帰宅時刻が10時半になった。
 「ケン、こっち来い」
 父に呼びつけられた。
 「どういうつもりでこんな時間まで遊んでるんだ。」
 合唱団のこと、合唱の練習がメインで後ろめたいことはなにもしてないことを説明したつもりだったが、全く話が噛み合わない。
 「そんなに信用ないならこんな家出てってやる。」
 初めて父親に敬語を使わなかった。
 そしてほんとに家を出て行った。

 完全に頭に血が上っていた。
 あてもなくむやみに歩いた。

 少したってさてこれからどうするか。
 啖呵を切って飛び出した手前、戻ることは考えられなかった。
 ふと同じ生徒会役員で同学年の宮崎君は歩いて行ける場所に住んでいることを思い出した。
 土曜日の夜中。
 「家出したんだけど泊めてくれないかなぁ」
 宮崎君は笑って部屋に入れてくれた。
 彼のおふくろさんは肝っ玉の座ったひとで、
 「うちはかまわないけど、電話はいれなさい。」
 と、受け入れてくれたのだ。(感謝)
 1泊させてもらい、翌日帰った。

 父はしばらくの間、この飛び出し息子と口を利かなかった。
 (普段も会話はなく、父の命令とそれに対する返事しかなかった。)
 それまで父親は絶対の存在で子供は絶対服従だった。
 しかし、このささやかな抵抗が功を奏したのか、土曜日の事はあまりうるさく言わなくなった。
 (でもその後もう1回宮崎家に泊めてもらったけど)


(C)Ken Nishijima 2003.6