|
自転車
高校の入学祝いに自転車を買ってもらった。
家から学校まで約10qの通学に使うためである。
車種は丸石「ロードエース」
クロムモリブデン鋼のダイヤモンドフレーム。
車輪の径は27インチ。
ドロップハンドル。
10段変速。
そしてボディカラーはレモンイエロー。
当時はこのサイクリング車が主流であった。
より本格的なロードレーサータイプは極細のチューブレスタイヤを履き、泥除けやスタンドなど走行に余分なものは一切省いている仕様だ。
いまでもたまにこのタイプに乗った、派手なユニホームとヘルメット、専用のシューズとグローブの人を見かける。
それと対極にあるツーリングタイプは26インチでがっちりと作られていて、前輪と後輪の両サイドに荷物をたっぷり積み込める仕様だ。
ツーリングマニアはこの自転車にテントや寝袋を積んで、何日も旅行をしていたし、目的地まで前輪を外して袋に詰め込み、列車に乗り込む「輪行」というのも行われていた。
いまではすっかりこの手の話は聞かなくなったなぁ。
日本人が豊かになってオートキャンプが主流になったということか。
「ロードエース」はこの二つのタイプの中間でランドナータイプと呼ばれていた。 27インチで通常のタイヤを履き、さまざまな荷台もオプションで用意してあった。
この手の車種はブリジストンの「ロードマン」がメジャーだったが、後発で出た「ロードエース」はクロムモリブデン鋼を使いながらかなり割安だったと思う。
当時(1978年)の値段でオプションをつけて5万円位。

(そうそう前輪用のバックも買ったなぁ)
上記3つのタイプも共通して、ダイヤモンドフレーム、ドロップハンドル、10段以上の変速機付きが基本形であった。
今はなかなかお目にかかれない車種となってしまったが、勿論現在所有している自転車はこのタイプである。(赤い流星を見てね。)
なぜかニシジマ少年は高校に入るまで自分の自転車を買ってもらえなく
「ジローいいだろ貸してくれよー」
と4歳年下の弟のミニサイクルを借りていた悲しい境遇だったのだ。
晴れて手に入れたサイクリング車。
それはもううれしくてうれしくて日曜日には、マンション3階の玄関横スペースに持ち込み、逆さまにしてリムを磨いていた。
通学コースは相模原市を南北に縦断する形だった。
その道のりの1/3位は、相武台団地のはずれから北里大学方面を繋ぐ道路だったが、長年の道路建設反対派の運動により、当時は車の乗り入れが出来ない状況であった。
しかし歩行者や自転車は入れたので、通学には最高。
この区間は信号や車を気にすることなく全力疾走が出来た。
通学途中で音楽部の応援メンバーだったヨツモト君とよく一緒になった。
彼の高校も途中まで同じコースなのだ。
「よ、ニシ、うひょひょひょひょー」
と背後から声がしたら、あっという間に抜かされる。
しばらくがんばって後を追うが、すぐに彼の背中は小さくなっていった。
大げさでなく、彼は自動車とあまり速度が変わらないのだ。
ヨツモト君は通学用とは別にオーダーメイドのツーリング車を作り、夏休みには長期の自転車旅行に行くという、その道の人だった。
(後に「富士サイクル」に入り、サイクルサッカーで活躍)
高1の夏休み。
中学で同級だった村松君と池上君の3人で、箱根へ日帰りサイクリングに行った。 長距離サイクリングは初めてだった。
朝、6時出発。
相武台から座間を抜けて246号線を西に進んでいく。
きっちり一時間毎に休憩をとり、フレームの内側にセットした専用の水筒から粉を水で溶いた「ゲータレード」を飲んだ。
当時、毎月かならず立ち読みしていた雑誌「サイクルロード」を参考にしての長距離サイクリングである。
最初の難関は秦野から山北にかけての延々と続く上り坂。
傾斜はそれほどでもないが、太ももに長時間にわたり負担がかかる。
村松君は中学3まで陸上部で長距離を走っていたスポーツマン。
池上君は中学卒業後、なんと陸上自衛隊に幹部候補生として入隊した男である。
体力的にまったく劣る私は、この二人の足手まといにならないよう、なんとかついていった。
途中で何人ものサイクリスト達とすれ違った。
このサイクル仲間同士はかならず手を上げて挨拶するのがマナーである。
本格的なサイクリングは初めてなので結構ドキドキしたが、挨拶を返してもらうと自分も一人前のサイクリストと認められたようで嬉しかった。
また途中で出会った大学生のお兄さんとは御殿場まで並走した。
彼は山中湖を目指しているという。
昭和53年。
まだまだ牧歌的な日本のいい時代だった気がするなぁ。
(おっといかん。じじくさくなってるぞ。)
御殿場で246号線から左に曲がり、138号線へと移る。
さて最難関の乙女峠越えだ。
標高1005メートル。
数年前、車でこの道を通ったがあまりにも急な斜面の連続に、まさか自分がここを自転車で登ったとは信じられなかった。
40おやじには、もう高校生のころの体力の想像がつかない。
道は峠道独特の細かいカーブの連続である。
ギヤを一番軽くして、立ち漕ぎで登って行く。
昼近くなり太陽の光と熱が真上からそそぐ。
荒い息と、近くから響く蝉の声。
やがて意識は朦朧と。
しかし、4ヶ月間、往復20キロの通学で鍛えられた太ももと心肺機能は、峠の頂上まで登りきるのを可能にした。
12時前には頂上にたどり着いた。
峠の食堂で昼食。
勿論、峠の釜飯。
水筒に水を補給して、さてこれから下り坂だ。
途中で138号線からそれて林道に入る。
雑誌で読んだ、ダウンヒルコースだ。
砂利を飛ばしながら、速度はがんがん上がる。
3台の中で一番重量のあるニシジマ号がトップに踊りだし、そのまま加速していった。
ものすごい爽快感。
調子に乗ってとばしてしまったが、きちんとスピードを制御しなければいけなかった。
「飛ばし過ぎだよ」
と池上君に怒られた。
もしカーブの先に突然対向車が現れたら避けきれなかったに違いない。
しかし、このスリルと気持ちよさは登りのつらさを忘れさせる。
木立の隙間からきらきらと水が反射しているのが見えてきた。
ああ、あれが芦ノ湖だ。
ついにここまで、自分の体力だけで走ってこれたのだ。
帰りは1号線を使って、小田原から海沿いに走った。
そう箱根駅伝の復路と同じ。
そして夕方18時。
まだ明るい時間に相武台に帰ってこれた。
トータルで約140キロメートル。
家に帰ってすぐ風呂に入ると、尻が赤く腫れていてびっくり。
その夜からしばらく尻が痛かったなぁ。

|