進学
3年生の2学期。
担任の先生と母親と本人との三者面談により、進学する高校が選定される。 当時神奈川県の県立高校の合否を決める得点配分は、2年の終わりのアチーブメントテスト(以下ア・テスト)25%、3年生の2学期の内申書50%、入学試験25%という内容だった。
実際、ア・テストの結果と内申書の内容で志望校がほぼ確定してしまうのである。
3年の1学期まで部活動に打ち込み、それからさあ進学だと入試まで一生懸命努力しても、逆転劇はほとんど望めない、神奈川方式といわれる悪名高き制度だった。
昭和53年当時、今と違い公立高校が受験のメインで、通学圏の私立高校はほとんどが滑り止めの扱いであった。
相模台中学の状況といえば、学年で5本の指に入る秀才は学区外の湘南高校などの有名校を目指し、30位くらいまでは学区内トップのA木高校を目指す。
それ以下は学区内の普通科でS模原、Y和、A溝台とだんだん狭き門から広き門へとなっていくのであった。
(ちなみに相模台中学9期生は14クラス約600人)
さてニシジマ少年の成績は、旺文社の模試では30〜100位くらいを激しく上下する不安定な状態で、内申書はそこそこいいのだが、その内訳は音楽と美術が10という受験科目と関係ないところで稼いでいたのだ。
一応、A木高校が第一志望であると先生に伝えると、それならN大藤沢かT海大相模を併願しなさいと言われた。
当時の価値観でいうとその2校ともお金持ちの子供がエスカレータで大学まで行く私立の付属校なのであった。
もしそこに受かっても父親は決して入学させないことはわかっていた。
結局、併願不要のS模原高校を受験して合格したのだが、その選択が正解だったかどうかは今でもわからない。
ちなみにニシジマ少年の2歳年上の姉はA溝台高校へ、4歳年下の弟はA木高校へ進学したが、結局だれも大学へは進まなかったのだ。
話はヒューンと2001年に吹っ飛び、息子の高校受験になる。
地元のH沼高校(徒歩5分)を受けるならN大藤沢を併願しなさいと言われ、その通り受験して、両方合格した。
第一志望のH沼高校の合格発表前にN大藤沢の入学金(約20万)を払い込まなくてはならず、しぶしぶそうしたが、これは矛盾しているなぁと今でも思う。
確か私立大学でも同じような問題があり、入学辞退者への授業料の返却は認められるけれども、入学金は返却されない判断が下ったが、納得いかないなぁ。
ちなみに息子は現在、H沼高校の2年生だが、N大藤沢を選んだほうが良かったかどうかわからない。確実に言えるのは、もし私立だったら借金しないと通わせられないのが現実である。
なんと息子の進路希望が私立文系大学なのだ。2004年は娘も高校受験だし、たのむから特待生になって家計を救ってくれい。

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