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3.「パレスチナ」って?

レスチナ解放機構(PLO)をはじめ、よく新聞やニュースで「パレスチナ」って言葉を聞く。耳にする時はたいがい石油や紛争に絡んで、イスラエルやエルサレムの単語とともに新聞の見出しに登場する。しかし、世界地図を見ても、そんな国も地域も見当たらない。いったい何、何処なんだ?

との起こりは、その昔、オスマントルコ帝国が中東の広大な領土を支配していた頃に遡る。その頃、今のイスラエル、ヨルダン辺りをパレスチナと呼んでいた。その名は、地中海北部から移動してきたペリチテ人が住んでいた事に由来する。第1次大戦で敗戦国となったオスマントルコは解体され、その地は英国統治領となる。英国は、このパレスチナのうち、ヨルダン川東側をトランスヨルダンとし、西側をパレスチナと名付け、パレスチナ地域の定義を変更した。これが第2次大戦後もで続く。
2次大戦では、ナチスの迫害を逃れて多くのユダヤ人がパレスチナに流入、いや、戻ってきた。紀元前1000年頃この地には、ユダヤ教徒の王国「イスラエル」があり、王国滅亡後ユダヤ人は離散した歴史を持つ。ユダヤ教徒の精神的郷土だったのだ。この地に流入したユダヤ人達は、英国や米国から、ユダヤ人国家建国の了承をとりつけ、その流入は加速された。しかし、もうこの地には、パレスチナ人と呼ばれるアラブ人が住んでおり、流入するユダヤ人との間で土地を巡る争いが始まる。その混乱は泥沼の様相を呈し、その収束の為に国連は、ユダヤ、アラブ、国際管理地の3分割案を決議し、イスラエル建国が宣言される。このあたりの経緯が、先の「アラブの大義...」の始まりのようだ....。
方、アラブ諸国はそれを拒否し、第1次中東戦争が始まってしまう。この戦争は国連の調停で、各アラブ国がイスラエルと個別に休戦協定を結ぶことで一旦は収束する。トランスヨルダンはヨルダン川西岸地帯を自国に併合し、ヨルダンハシミテ王国と改める。エジプトは、パレスチナ南部の地中海沿岸のガザ地区(この単語も新聞によく出てくる!)を占領する形となった。第3次中東戦争では、イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区も支配下に入れた。そして第4次中東戦争と続き、様々に境界が引き直され、未だ確定していない。
うして、パレスチナ人は離散と残留とに別れ、総人口は580万人と推定されている。残留者はイスラエル下で被支配者意識を強く持ち、離散者はパレスチナへの郷愁を強め、パレスチナ国家建国と言った民族自決運動、即ちパレスチナ解放機構(PLO)へと繋がる。
レスチナの言葉の背景には、列強大国のエゴとユダヤ人とパレスチナ人と呼ばれるアラブ人の2つの民族の流浪と摩擦の歴史がある。
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