●貨物輸送の近代化…3
ー近代化は進んだけれど…ー

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 この時期はコンテナ列車の発展の他、一般用2軸貨車の2段リンク化、数多くの「物資別適合車」登場も大きな出来事です。
 「2段リンク化」とは簡単にいえば2軸車の足周りの改良です。
 2軸車は台車を使っているボギー車に比べて一般に高速性能が劣り(例外もありますが)、貨物列車高速化の障害になっていましたが、これにより最高速度は65km/hから75km/hへと引き上げられました。
 これは全国にある2軸貨車のほとんどに行われた改良で、大正時代に行われた連結器の一斉取り替え以来の大規模な改造作業といわれます。
 輸送する貨物に適した形態をもち、積み卸し作業も容易にした「物資別適合車」の増加も、目を見張るものがありました。
 例えば自動車を2段積みにして運ぶク5000型、化学工業の発展に伴う特殊な薬品などを運ぶ各種のタンク車等が、この時期前後に登場しています。


 自動車輸送車のク5000型貨車。KATO製品です。

 その他、「パレット」という平たい台の上に荷物を載せ、フォークリフトで一気に積み卸しをする「パレット輸送」も普及し、労力の軽減と荷扱い作業のスピードアップにおおいに役立ちました。
 また、セメントや小麦のような粉体のものは、包装せずに専用の貨車で運ぶ「はだか輸送」で能率を上げる事となり、各種のホッパ車が登場します。
 これまでの貨車はほとんど黒一色でしたが、こうした近代的な貨車は用途別に様々な色に塗られ、貨物列車はカラフル列車へと変わっていきました。
 「物資別専用列車」といって、特定の物資を一定の区間に大量輸送する列車も増えました。この種の列車は同じ型の貨車をずらりと連ねてヤードに寄らずに走るため、効率的な運行が出来、鉄道輸送の長所が最も発揮できるスタイルといえます。


 ホキ5700型貨車を連ねたセメント列車。この貨車はTomix製品です。
 物資別専用列車の一例で、他にはガソリン、危険物、小麦など様々な例があります。


 しかし貨物列車の大半はまだヤード作業を必要とし、依然として非能率でスピードが遅く、荷痛みも多い状況が続きました。
 ヤード作業には相変わらず多くの人手が必要で、危険な作業環境の改善も、遅々として進みませんでした。
 貨車不足も戦後からずっと深刻な状態のままで推移しており、これが解消されはじめたのは1960年代も後半になってからのことです。
 ところが、わずかの間に鉄道貨物をとりまく状況は、一変しました。
 大がかりな近代化が功を奏し、ようやく目に見えて貨物輸送が変わりはじめた頃には、もう既に自動車が著しい発展を遂げ、鉄道はシェアを奪われていたのです。
 ほんの数年の間のことでした。
 そして多くの人手と設備を必要とする貨物輸送は、国鉄赤字の大きな要因といわれるようになってしまいます。


 トラックはあっという間に普及し、貨物輸送の主役の座につきました。
 このジオラマの作成は 山田 敦 様です。


 「近代化」にはこうした状況を改善する「合理化」のためのものも多く含まれていました。
 しかし大量輸送中心の体系への転換、「ヤード集結方式」というシステムそのものの洗い直しが遅れ、さらには貨物輸送をとりまく状況の変化も非常に急速なものであったため、旧来の輸送方式を前提として行われた施策の多くが、無駄になってしまっています。
 例えば物資別適合車ですが、個々の貨物の扱いについては能率的に行えるようになりましたが、それと同時に「この車両にはこの貨物しか載せられない」という「専門化」が進みました。これにより貨車の使用効率が低下するケースが出始め、貨車の維持費も特殊機構の導入や両数の増加から増大し始めます。
 以前なら確かに積み卸しの不便はありましたが、たいていの貨物は屋根付きか屋根なしの貨車で運んでいたため、少ない貨車で輸送が出来て効率はよかったのです(ちなみに現在、物資別適合車は用途別に工夫されたコンテナにとって代わられているケースが多くあります)。
 また岡多線の自動車輸送のように、ターミナルを作り基盤整備が出来たときには、既にキャリアカー中心の輸送体系が構築され、余り活用されないままに終わった…というケースもありました。
 そして、ヤード作業の機械化も推進はされましたが、この方式の能率そのものを見直すものではありませんでした。1984(昭和59)年にヤード集結方式というシステム自体にメスが入ると、結局機械化ヤードは不要となったのです。
 これらは「場当たり的な施策による失敗」なのか「早すぎる状況の変化に振り回された」結果なのかは意見が分かれそうです。
 が、ばく大な投資が回収されないまま終わってしまった例があったことだけは、確かといえましょう。


 鉄道貨物の衰退した要因にもう一つ、1960〜70年代の国鉄の混乱が挙げられます。
 当時の国鉄はストや順法闘争による混乱、運賃値上げも日常茶飯事で、これも鉄道貨物にとっては大きなマイナスでした。
 特に1975(昭和50)年の「スト権スト」では実に8日間にもわたって国鉄が全面ストップするという事態になり、この時政府は各地のトラック業者を総動員して物流を確保しています。
 これがきっかけで国鉄から離れた荷主も非常に多く、国鉄の貨物輸送は致命傷を負うことになるのです。


 ストによって通勤通学のアシはその都度マヒし、貨物列車で発送した食品は、腐りました。

 鉄道貨物の衰退はあまりにも早い環境の変化と、国鉄自身の問題という複合した要素の中で起こってきました。
 現在の鉄道貨物輸送は、極端に大量の輸送、道路輸送では危険なもの等、「クルマでは具合が悪い」ものに限られているようです。
 JRの貨物列車は現在「JR貨物」の手で運行されていますが、JR貨物自体は線路をもっておらず、旅客会社の線路を借りて運行する形態になっています。
 そのためどうしても「旅客が主、貨物は従」という事になりがちで、様々な問題も生じていますが、結局それだけ貨物のウェイトが軽くなってしまった結果という見方で、間違いはなさそうです。
 しかし鉄道は少ないエネルギーで大量の輸送が可能であり、線路という専用の「道」を走るため安全性や定時運行という点でも優れています。
 JR貨物でも特異な環境の中、鉄道による貨物輸送の本質的な特徴を活かすべく技術開発が行われ、高性能の機関車や合理的な輸送システムが生まれています。
 今日、環境問題が深刻化する中で鉄道は見直されつつあり、ようやく本質的な意味で明るい話題が出てきたと感じるのは、決して作者だけではないでしょう。

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