●実現した新幹線…2
ーポッポ屋の夢、クルマ屋の夢ー
戦前、「弾丸列車計画」同様に「弾丸道路計画」も存在しました。
これはドイツのアウトバーンを手本に東京ー神戸間を高速道路で結び、道路を整備して日本の自動車産業も発展させようという計画で、やはり戦争で中止になっています。
しかし戦後日本に進駐してきたアメリカが「日本には道路予定地はあるが道路はない」と道路事情の遅れを指摘したこともあって、都市部の復興と並行して道路整備も急ピッチで行われていたのです。
自動車産業も軌道に乗り、「クルマ社会」の夢を現実のものとするべく数多くの開発や研究が進められ、そろそろ自家用車の普及も始まっていました。
まず1956(昭和31)年には「クラウン」が登場し、今でいえばマイホームを買うような感覚で「クルマを買う」ことが庶民の大きな夢という時代が到来します。
続いて翌年には「スバル360」、その数年後には「パブリカ」といった大衆車が登場、加えて月賦(ローン)による販売方式も確立されるようになり、いよいよマイカー時代の幕が切って落とされています。
スバル360。この模型所有とジオラマ制作 山田 敦 様
確かに欧米ではクルマ社会の到来と共に鉄道は衰退しており、人口密度や局所的な流動の多さといった日本特有の事情はともかくとして、道路推進派の意見は説得力がありました。
そしてこの時期が高速道路か新幹線か選択を模索していた時期だったことも大きく影響してはいましたが、新幹線関係者側はそういった問題以上に「新幹線の敵は道路」と考えていたようです。
ところで飛行機についてですが、既にこの時期には
「飛行機は速いが空港までの行き来や搭乗手続きに時間がかかる。東京ー大阪間を3時間で走れれば飛行機にも対抗できる」
という目算が立てられており、新幹線関係者があまり神経をとがらせている様子はうかがえません。
とはいえ国鉄としての対航空機戦略は既に少しずつ始まっており、1956(昭和31)年には早くも「あさかぜ」が打って出ています。飛行機の旅が一般化するのはそれから十数年も後のことですから、当時の国鉄はいかに先見の明があったかがうかがわれます。
さて、道路に対して新幹線は決して優位な状況ではありませんでしたが、軽量客車、高性能電車、交流電化といった「高速の電車列車」に必要な技術はひとつずつ実現されてきており、技術面の準備は着々と進んでいました。そして 島 秀雄不在の間も、国鉄の鉄道技術研究所ではたゆみない研究が続けらています。
1957(昭和32)年、研究所が創立50周年のイベントとして「超特急列車、東京ー大阪3時間への可能性」という講演会を行うこととなり、国電の車内にも吊り広告を掲示、人々を驚かせました。
講演会当日の会場は超満員で、これがきっかけで世の中の多くの人々が「広軌(標準軌)による高速鉄道」に関心を持つようになります。
この講演会で発表を行った人の中には戦後国鉄が受け入れた軍関係の技術者も多く、背景の異なる技術を取り入れたことによる研究成果は非常に大きいものでした。
幸いなことに、時の中村運輸大臣も「広軌による高速鉄道」の案には好意的でした。彼の在任期間は1年もなかったため、もしこの時期に広軌別線、或いは鉄道そのものに否定的な人物が運輸大臣であったならば、新幹線は実現できなかったであろうともいわれます。
そして、ちょうど最終決定直前の1958(昭和33)年に「こだま型」が完成し、「この技術で広軌(標準軌)の線路を走れば充分時速200kmは可能」という具体的な姿を国鉄内外に示せたことは、広軌推進派にとってはまさにグッドタイミングでした。
こだま型電車。詳細はこちらへ。
更に決定的だったのは、アメリカの文献をもとに計算すると、高速道路に「新幹線」と同じ輸送力を持たせるには幅120mの道路を建設しなくてはならず、なんと鉄道の8倍の用地が必要、とわかったことです。
これにより「新幹線不要」論に待ったがかかり、鉄道と道路の共存という形に話がまとまったのです。道路も急ピッチで建設が行われ、名神高速が1964(昭和39)年に、東名高速が1969(昭和44)年にそれぞれ開通しています。
曲折を経て「広軌による高速鉄道」の新幹線建設は決まり、多くの関係者の努力により、建設は進められました。
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