●実現した新幹線…1
ー「国鉄よ、さらば!」ー
戦時中に中止となった弾丸列車計画は、敗戦によって幻に終わったかに見えました。
しかし全線電化、車両の近代化、設備の改善を行っても東海道本線の輸送量はその効果を上回る勢いで増加し、東海道本線の輸送力不足は深刻になってきました。東海道沿線には人口が激増して全人口の4割が集中、経済成長が始まってくると沿線の工業生産高は7割を越え、いよいよ多くの旅客や貨物が集中するという事態になってしまいます。
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過密を極める東海道本線。
「東海道本線の黄金時代」です。
しかしそんなことを言うのは鉄道ファンだけで、現実には輸送力が足りずにっちもさっちもいかない状態だったというのが本当のところだったようです。
指定券や寝台券の入手は難しくダフ屋も横行、急行列車も3等(自由席)はいつも立席が出る状態で、通勤列車も必要な本数が確保できず、速度も遅く、大変な状況だったといいます。
2の写真は自宅で撮影。
3はジオラマ制作 山田 敦 様 撮影 高橋 政士 様。
他はポポンデッタ秋葉原にて。
1958(昭和33)年、東海道に早急にもうひとつ別線を建設すべしという答申が「日本国有鉄道幹線調査会」(「新幹線調査会」ではない)から出されると政府は直ちに建設を決定、計画は動き出しました。
この別線は広軌(標準軌)による在来線とは完全に独立した線路にすることとなっており、翌年から工事に着手。時速200kmで走る「夢の超特急」の実現に向け、国鉄は総力をあげて建設に当たることになりましたが、開業は5年後の東京オリンピックに合わせることとなったため、建設関係者も鉄道技術者も、夜も昼もない戦いとなりました。
しかしこの「広軌別線」の決定が出るまでには、紆余曲折がありました。
まず、国鉄で高速電車の開発に当たっていた 島 秀雄ですが、実はこのずっと前に一度国鉄を退職しています。
1951(昭和26)年に起こった「桜木町事故」の責任をとる形で、国鉄を去っていたのです。
桜木町事故は架線工事の現場に電車が突っ込み、パンタグラフが垂れ下がっていた架線を引っかけて発火、列車火災となり死者106名を出すという事故でした。
通電したままで作業を行っていた上に電車が入ってきたのですから、作業手順に重大な問題があったわけですが、この事故の原因はその他様々な要因が絡むものだったため、組織内で責任のなすり合いとなってしまいました。また、当時はまだ電気運転に否定的な技術者も少なくなく
「だからいわんこっちゃない。電気運転はやはり危険なんだよ」
といったことを口にする人もあったそうです。
すっかり嫌気がさした秀雄は表向き「ロクサン型設計の責任をとって」という形で退職することにしたのです。
国鉄退職後、彼は住友金属に移り、研究を続けていました。
そして民間企業の厳しさを目の当たりにし、やはり「新幹線は近い将来必ず必要になる」と確信していたのです。
ところが1955(昭和30)年、秀雄は国鉄に呼び戻されます。
と、いうのも当時国鉄総裁に就任した十河(そごう)信二は、かつて後藤新平や、秀雄の父安次郎と「鉄道広軌化」を目指して共に戦った人物で、「東海道の別線は広軌(標準軌)の高速鉄道にしたい」と考えていたからです。彼は秀雄を技師長の座に据えました。
こうして体制は整いましたが、「新幹線」が「広軌による高速鉄道」というスタイルに落ちつくには、まだ時間が必要でした。
当時はまだ在来線と互換性のある「狭軌の線増」や「狭軌による高速別線」というアイディアを支持する意見も多く、さらには「欧米では鉄道は斜陽化している。そんなものより大規模な高速道路を作って来るべきクルマ社会に備えるべき」という意見もあったためです。
少しずつ自動車も増え始めました。
ジオラマ制作 山田 敦 様
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