●夢の全国新幹線網…1
ーおらが町にも新幹線をー
1964(昭和39)年に開業した新幹線はそのスピードと輸送力で、世間をアッといわせました。
計画当時は「万里の長城、戦艦大和、新幹線」と並べられて「世界の三バカ」とまでいわれていたのに、いざ走り出してみると世界の羨望の的となったのです。
当然全国の自治体からは「自分たちの町にも新幹線を」という声が相次ぎ、国鉄にも
「主要幹線の輸送量は経済発展と共に増え、いずれ全国に新幹線を走らせる時期が来る」
と、考える人たちが出てきました。
ただ当時、国鉄の経営の最終決定権は国が握っており、その状況下での新幹線計画には、当然の如く政治的圧力が加わっていくことになります。
また、当時の国鉄は東海道新幹線建設に多大な資金を投じており、それには多くの借入金が含まれていました。
国鉄にはもう、資金がなかったのです。
国鉄に資金がないのに政府が国鉄に過大な支出を強いて、それがきっかけで国鉄が大混乱に陥ったことは「混迷の時代へ」から「スト権スト」までの数項目にわたって書きましたが、新幹線計画についても早い段階から政治が深く介入し、国鉄の預かり知らないところで論議されていったといって間違いはないと思います。
しかも大赤字に転落し、組織の混乱も深刻な事態を迎えていた国鉄そのものの問題を解決しようという動きは、当時の政府にはまったくなかったのです。
全国に新幹線を走らせる計画は、まずは国鉄から出されています。
1966(昭和41)年9月、国鉄は「高速鉄道構想」を発表。国の「経済社会発展計画」作成に際し、10年後の国鉄のあるべき姿として、首都圏高速鉄道網、太平洋岸縦断新幹線を提案しています。
1969(昭和44)年5月、今度は政府が新幹線網整備(約7200km)を盛り込んだ新全国総合開発計画(新全総)を閣議決定しました。
この計画の討議の過程では旭川〜稚内、札幌〜釧路、広島〜松江などのほか、東京から日立、安房鴨川、甲府といった近距離路線まで盛り込まれ、実現しても対費用効果がどこまであったか疑問に思えます。
そしてその後の論議の中では、旭川〜網走、平(現・いわき)〜新潟、紀伊半島一周といった路線まで議題にのぼり、一時は9000kmにも及ぶ案になりかけるに至っては、ほとんど収拾がつかない状態だったといえましょう。
計画は二転三転しますが、まずは1971(昭和46)年1月 東北(東京〜盛岡)、上越、成田の3線の基本計画が決定され、着工となります。
このうち東北、上越は1982(昭和57)年には大宮始発で暫定開業していますが、成田新幹線(東京〜成田空港)は沿線自治体の他様々な反対の動きなどにより工事が進まず、国鉄の分割民営化時の1987(昭和62)年4月に、計画失効となりました。
現在、その予定地として建設されていた東京駅地下ターミナルにはJR京葉線が、空港ターミナルにはJRの成田エクスプレス等と京成電鉄が乗り入れ、在来線ターミナルとして活用されています。
N`EXや 新幹線が 夢の跡
この写真は自宅で撮影しました。
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